星に願いを

 

 人魚王の海中宮殿の珊瑚の壁に沿うようにして、「ミチル」
は身を潜めました。滑らかな背中の肌を珊瑚の小さなトゲがひ
っかくのと、自分の心臓の鼓動がドクンドクンと耳にまで響く
のが伝わってきます。
 隙を見て、ミチルはもう一度回廊にまだ誰もいないことを確
かめました。

『どこにいるかしら…曲り角のところ?』

 ミチルは肺いっぱいに大きく「水」を吸い込んで、扉に向か
って泳ぎだしました。

『あそこに!』

 反射的にミチルは、前もって集めて両手一杯に持っていた小
さな貝殻を掴みとりました。予想通りの場所を巡視していた衛
兵を、ミチルは再び窺いました。そして回廊に向かって無数の
貝殻をばらまいたのです。

 水の中に響き渡る物音は、人間の耳には聞き取れないほどの
ものですが、しかしミチルにとっては狙い通りの効果をあげま
した。不審な物音に、衛兵はあたふたと音の方に向かってくれ
ました。
 ミチルは笑いをこらえて物陰から飛び出すと、昆布の鉢植え
の、その背後に隠されていた抜け穴から外に出たのです。

 ついに自由を得て、城から全速で脱出したミチルは、大いな
る青き海の向こうを目指しました。
 あと少しで城の境界線、というところで、巡視イルカが一頭
やって来て、きゅーっと鳴いて挨拶してきました。ミチルはイ
ルカの口をギュッと抱きしめながら、自分の持ってきた袋の中
を探りました。やっと見つけた魚をイルカの口に押し込んでや
ると、嬉しそうにイルカが笑いました。

 その場を離れようと再び身を躍らせたところに、また別のイ
ルカがやってきました。

「あら、あなたも欲しいの?」
 二頭目に訊くミチル。
 頷いたように見えたイルカにも、ミチルは魚を与えてやりま
す。

「さあ、お行きなさい」
 そう言うと、二頭は一緒に去っていきました。

 その姿を見送りながら微笑んだミチルは、また背を向けて進
み出しました。

 水の中を、くるくる渦のように泳ぐミチル。
『私は、自由だわ、これで自分の好きなように行動できる。私
の居場所を、誰も知らないのね』
 ふと家族を思い出して、ミチルは眉をひそめました。

『私が後宮の一室に閉じこめられていると思いこんでいるうち
は、誰も私のことなんて気にかけたりしてるはずはないですわ
ね』

 ミチルは「冒険」に憧れていました。8歳の時には、父の書
斎に入る道を見つけました。15の時には、後宮の部屋の外に
穴があるのを見つけました。そして今、それをうまく使ったと
いうわけです。

 目的の場所に到着すると、ミチルは海底に向かって降りてい
きました。かつて嵐が通った時、砂地の海底まで攪拌されて、
興味深い品々が掘り起こされました。人魚たちが時間をかけて
陸の人間たちの物を探し回ったと耳にして、ミチルが欲しかっ
たのは音楽を奏でる道具でした。それを見つけて水中に響き渡
る弦の音を耳にできれば、それを袋に入れて持ち帰り、自分の
宝箱に納めたかったのです。
 息を吹き込むと美しい音を鳴らす貝なら、すでにいくつも持
っていました。でもミチルは、何か輝かしい物を目にしたいと
思って探し回っていました。
 砂地の海底を探すうちに、午後は過ぎていきました。

 小さな銀色の魚の群れが、光の中を行ったり来たりします。
 泡が沸き上がる中を、ミチルがすり抜けていきます。暖かな
水中を、力強い尾びれのキックでミチルはすいすいと泳いでい
きます。水の流れが身体に沿っていき、魚たちがギリギリをか
すめます。
 頭上からの陽射しを、何かが遮りました。ミチルがビクッと
して、慌てて辺りを見回すと、あれだけたくさんいた海の友達
がすっかり姿を消していました。再び見上げたミチルは、ゆっ
くりと正体を現した影に目を見はりました。
 円錐形の鼻先、紡錘形の胴体、そして力強い尾びれで巨大な
ホオジロザメが水中を進んでくるのです。その強大な身体の完
璧さを唯一損なっているのが、脇腹いっぱいに走っている長い
傷跡でした。
 人魚の少女は、親友だと気づいてニッコリ笑うと、その前へ
と上昇していきました。

 この巨大鮫と、ミチルはしばらく一緒に時間を過ごしました。
鮫はもう70歳近くの老魚でした。
 時間が過ぎ、もう城に戻らなくてはならないとミチルが思っ
た、その時です。
 一隻の船が頭上を横切りました。
 ミチルが顔を上げた、その瞬間、老鮫が身を翻して船尾に向
かっていったことに、ミチルは仰天しました。そして気づきま
した。大きな肉の塊が水中を引かれていくのを。そして夕暮れ
の仄暗い中、銀色の鉤が光るのをミチルはかろうじて目にした
のです。

「ダメですわっ!」
 あの船は、彼を釣り上げようと…!

 あとを追って親友を止めようとするミチルですが、しかし鮫
はすでに肉に食らいついていました。違和感を感じた鮫が、水
中に降りていこうとしましたが、逆にピンと縄が巻かれて上に
引かれていきます。
 ミチルが冷静だったなら、あの鋭いギザギザの白い牙ならあ
っという間に縄を噛み切ってしまうことに気がついたのでしょ
うが、しかしその時のミチルは思わず鮫を助けようと側に近づ
いてしまったのです。
 逃れようとした大鮫が、大きく身をくねらせました。もがい
た鮫が激しく跳ね、そしてミチルはその尾びれの一撃を受けて
息を詰まらせました。
 もっと水を吸い込もうと動きを止めた途端、船から網が投げ
込まれました。それに気がつくより早く、ミチルはなすすべも
なく網に絡みとられ、そして海上の灯りに向かって引き上げら
れていったのです。

***

「シー・キング」号の船上

***

 デッキに船長が現れました。白髪を風になびかせ、爽快に笑
いながら、船長は海の香りの空気を肺いっぱいに吸い込みまし
た。海にいることが、航海も、自由も、スコールも、海に関わ
ること全てが船長の喜びでした。まあ、たぶん最後の一つはそ
うとも言えないでしょうが、ともあれ船長は波の上でご満悦で
した。

 ホッと息をつき、索具を見上げた船長の視線の先に、マスト
のてっぺんでちょこまか働いてる17歳の下働きの少年がいま
した。
『あの小僧、いつも何かに夢中だな』
 手慣れた様子でロープを操る少年を、船長は見やりました。
ひとたび天気が良くなれば、少年は何時間でもそこにいて、他
の物なら吹き飛ばされそうなほどの風が襲ってきてもそのまま
なのです。

 そこに二人の部下が駆け寄ってきて、船長はそちらに視線を
向けました。

「船長、連中がなんか捕まえたみたいですぜ!」

 船長は二人の後について、船乗りたちが網を引き上げている
ところまでやって来ました。

「こいつはきっと大物の鮫がかかったようだぜ」

「いいか、エラからはらわたに銛をぶっさすんだ、内側からと
どめを刺すんだぞ」

「鮫の皮はなんつったって、高く売れるからな」

 網が甲板の上に引き上げられました。船乗りたちは網にかか
ったものを見て、大いにガッカリしました。

「なんでえ、たいしてデカくねえなあ」

「おい、ちょっと待て、こいつ、鮫じゃねえ」

「ああ、そうだ、違うなあ」

「よく見せろや」

 一人が笑いながら、甲板に獲物をどさりと下ろしました。

 ひどく乱暴に投げ出されて腕と尾びれを打ち、痛みにミチル
は悲鳴をあげました。

「なんてこった、捕まえたのは魚の娘だ」

「おい、見ろや、こいつ、人魚だぜ」

「信じられねえ。こんなもの見るのは初めてだ」

「おお、べっぴんじゃねえか」

 船乗りの一人がミチルの両腕をとって後ろ手に引っ張り上げ
て、他の者たちに見せるようにしました。
 海のような緑の長い髪が前に流れて裸の胸を覆っていました
が、それがかえって人魚に気品を与えていました。その白い乳
房を掴まれても、ミチルは悲鳴をあげるのをこらえて歯を食い
しばっていました。

「見ろや、まるでお姫さまみてえだ。でも、マー『メイド』と
はこれいかに、だ」
 男たちが爆笑します。
「ピート、そのわけは夜になりゃわかるってもんさ」

 マストの遙か上から、船乗りたちが盛り上がっている様子を、
あの少年「ハルカ」が見ていました。
 会話は余りよく聞き取れませんでしたが、残飯目当てに船に
くっついて来ていた鮫を捕まえたんだろうな、とばかり思いこ
んでいました。ハルカ自身は失敗すりゃいいのに、と思ってい
たのですが、どうやら捕まえてしまったらしい、と見たところ、
それは鮫にしてはずいぶん小さなものです。
 ハルカはその時、無視するつもりでした。実際それが安全と
いうものでした。もし諍いでもおこして、自分の正体…自分が
「女」であることがばれたらどうなってしまうか、ハルカには
想像もできませんでした。

 テノー公爵家の令嬢アレクサンドラ・ハルカが邸宅から姿を
消したのは5ヶ月前のことでした。
 失踪直前、ハルカは最後の反抗の証に、その長いブロンドの
髪を切りました。それに対してハルカの父は大いに激昂し、ハ
ルカを自室に閉じこめたのです。
 しかし、公爵にはわかっていませんでした。この意志の固い
娘を押さえ込もうというのがムダな努力であったことを。公爵
にとって不運なことに、ハルカはやすやすと、窓の外を伝って
樫の木を降りたのです。そして馬小屋の中にはいると、うっと
おしいスカートを脱ぎ捨て、胸を固く縛り上げて柔らかい女性
の身体の線を隠し、男の子の姿をとることにしたのです。最後
に馬丁の少年の古着を身に着けて完成です。

 その夜、アレクサンドラ・ハルカはこの世から消え、そのか
わりに澄んだ瞳の美少年が一人、誕生しました。
 今その事を思い出して、ハルカは幸せを噛みしめました。

『あれ、何だ?』
 ふと、ハルカの視線が獲物に戻りました。
『まさか、あの身体は?』
 人間の少女の上半身が見えたのですが、他はよく見えません。
知らずにゾッとする展開に引き寄せられてしまうことは初めて
ではありませんでしたが、しかし、その「身体」はひどくもが
いているように見えました。

 ふとハルカは抑えがたい衝動に駆られ、そこにいれば安全な
はずだったマストの上を離れると、そこで何が起きているかを
見に行こうとしたのです。

 高貴の生まれながらすっかり慣れた様子で、ハルカはロープ
を伝って甲板に降り、すたっと立ちました。そして男たちの群
れの中に向かっていき、肘で押し分けながら入っていきました。
だれも動こうとしなかったので、大変でしたが。
 そこで目にしたものに、ハルカは仰天しました。そこにいた
のは人魚、そう、本物の生きている人魚だったのですから。

 人魚の少女はぐったりと力無く、二人の男に抱えられていま
した。美しい暗緑の海の色の髪と、その豊かな髪でも隠せない
ほどに美しく整った顔立ち。突然その少女が顔を上げた、その
信じられないほどに青い瞳に、ハルカは茫然となってしまいま
した。海の中から引き上げられたばかりだったせいか、それと
も泣いていたせいかはわからりませんでしたが、人魚の少女の
顔には明らかにこぼれた水の痕がふたすじ、光っていました。

 心がときめいて前に進み出ようとしたハルカでしたが、他の
男たちに押されてたたき出されてしまいました。

 二人の船乗りががっしりと少女の腕を掴みました。そして甲
板の上を引きずっていったのです。
 人魚の尾びれが砂まみれの甲板にズルズルと引きずられてい
くさまを目にして、ハルカは思わずたじろぎました。

 こんなこと、させられない。見過ごすことなんかできない。

 ハルカは船長の姿を捜しました。そして船長室に向かって駆
け出しました。

***

船長室

***

「なんですって!?」

「小僧、ハッキリ言ってやろう。あの人魚をイングランドに連
れていきゃとんでもない金づるになる。珍しいことこの上ない
からな。あいつを見に来て木戸銭を払う連中がどれだけいるか、
想像してみな」

「船長、でもあの娘は海の生き物です。旅の間に死んじゃいま
すよ」

 船長の目に不吉な光が宿りました。
「それでもあの人魚はお宝さ!本物の生きた人魚を、たとえ死
んでいても、解剖して調べたいっていう学者が何人もいるだろ
うよ。俺たちに損はないってことさ」

「何てことを言うんですか!それじゃ人殺しの仲間だ。あの娘
は生きてるんですよ、生きる権利が…」

 ハルカの言葉が遮られました。船長の手がハルカの二の腕を
掴んで締め上げ、グッと引っ張り上げたのです。その口からは
酒臭い息が吐かれていました。自分の幸運に祝杯を挙げていた
のでしょう。

 息を止めてこの臭い息を避けるハルカの顔に向かって、船長
は言いました。
「聞け、小僧。お前にはここでずいぶん目をかけてやってきた。
あのスコールの時に俺の命を助けてくれたのはお前だったから
な、他にも…。そうさ、お前は今まで雇った中でも一番だ、だ
がな、この件に関しちゃ口を挟むな。仕事に戻って、あの人魚
のことは忘れちまうんだ、いいな?」
 船長の指が、ハルカの腕に食い込みます。

 この男にいくら言ってもムダだと、ハルカは思いました。今
まで尊敬していた船長でしたが、酒に濁ったその目を見て、寂
しいけれど全て終わった、とハルカは悟ったのです。
 でも、賢いハルカには、それ以上自分が異を唱えたらひどい
仕打ちが待っていることもわかっていました。

「わかりました」
 ハルカの言葉に、船長は手を弛めて椅子に深く腰掛け直すと、
またワインに手を伸ばしました。

 ハルカは最後に船長を一瞥するや、部屋を出て厨房に向かっ
ていきました。

***

しばらくして

***

 ハルカは船倉に忍び込みました。
 小さな包みを胸に抱え、腰には薄めたワインを入れた革袋を
下げています。そして鼻に伝わる潮の香りをたどりました。
 そして、貨物の箱がいくつも置いてある後ろの隅に、人魚が
横たわっていました。ずっと闇の中だったところにハルカの手
にしたランタンの灯りが溢れ、人魚の少女は身じろぎしました。

「お腹、空いてる?」
 低い声でハルカが訊きました。
 でも、人魚の少女は混乱しているようです。ハルカは身振り
で食べる仕草をしてみましたが、ミチルの視線はパンの固まり
を素通りして、そのまま目を伏せてしまいました。それはどう
しようもないことでした。人魚はどうしても食べようとしてく
れないのです。

 ハルカがもっと顔を近づけてよく見ると、少女が死にかけて
いるのがわかりました。唇がガサガサになってひび割れ、鱗も
すでにつやを失っていました。不規則に上下する胸は、少女が
必死に呼吸を維持しようとしている証でした。

 怫然と、ハルカはこれ以上耐えられなくなりました。
 一目見た時から忘れられないほどの青い瞳の、この美しい創
造物が、今にも死のうとしていることに、そしてその亡骸すら
をも己の利益にしようとしている人間がいることに。

 ハルカにとって譲れないものがあるとすれば、それは貪欲な
人間のなすがままになることへの嫌悪でした。
 ハルカの父親は、結婚すればそういう考えは変わるものだと
言うのが口癖でしたが、ハルカはそんな愚か者ではありません。
自分の手をとって求婚してくる男たちなどは、ほとんどは父の
財産と社会的な地位が目当てで、それ以外は肉体目当てに過ぎ
ないのでした。そんな連中のどちらも、ハルカは願い下げでし
た。

 この繊細な生物を目にして、ハルカは胸の中にあたたかな感
動が沸き上がってくるのを感じていました。そしてこの人魚の
少女をこのまま死なせるなんてできない、と思ったのです。

「助けてあげる。君を逃がしてあげる」

 まるで自分自身に言い聞かせるようにハルカは呟くと、ハッ
と見上げた人魚の瞳が急に知性に輝きました。少女が意味を理
解してくれたと、ハルカは確信しました。

 夜も更け、乗組員のほとんどが獲物に有頂天になって酔いつ
ぶれたのを見計らって、ハルカは再び船倉に忍び込みました。
船長の寝床からくすねたシーツを手にして。
 ミチルは床の上で丸まって、震えていました。その手にハル
カがそっと触れると、ハッとしてミチルが跳ね上がりました。

「だいじょうぶ。ボクだよ。さあ、これを」

 そのハスキーなささやき声に、ミチルはホッと安堵しました。
ミチルはごろりと転がって、ハルカがシーツを尾びれの下に入
れやすいようにしてやりました。この身体は水中では完璧に適
応しているのだが、陸に上がるとひどく厄介で、そして言うま
でもなく重いのでした。
 自分一人で抱えられるか心許なかったので、ハルカはこのシ
ーツを持ってきたのです。ミチルがこの涼しげなシーツの上に
載ると、ハルカはズルズルと引っぱっていき、船窓の向こうの
階段までたどり着きました。階段では、ミチルが這っていく後
ろからハルカが押してやるような形になりました。静寂の中の
作業としては申し分のない作業と言えました。まるで以前にも
どこかで同じことをしたことがあるかのように、二人は力を合
わせたのです。

 船倉を出ると、ハルカはミチルをそっと壁沿いに押しつけて、
見張りが近くにいないかどうか確かめに行きました。
 疲れ切って喘ぎながら、ミチルは扉に寄りかかりました。戻
ってきたハルカは、ミチルを舷側にまで押していき、上半身を
船の端の上に持ち上げます。その後はミチルが、両手と尾びれ
を使って乗り越えました。直後、ミチルは頭から真っ逆さまに
冷たい海の中にと落ちていきました。
 穏やかな海に再び抱かれ、ミチルは弱った身体を癒すために、
深い海底に潜っていったのです。

 ハルカの目の前で、ミチルは姿を消してしまいました。そし
て、人魚の少女が視界から消えた途端に心がズキンと痛んだ自
分自身に、ハルカは驚いていました。
 何分か目を白黒させていたハルカでしたが、やがて大きな溜
息を一つつきました。

『ボクってば、何考えてるんだろ…』

 その場に立ちつくしたまま、しばらく夜の潮の香りの中で空
気を吸っていましたが、やがて踵を返して自分の部屋に戻り、
眠りについたハルカでした。

***

翌日の昼

***

「おい、小僧!こっちに来な!」

 甲板掃除をしていたハルカが顔を上げました。船員たちが集
まっているところに足を踏み出すことにふと危険を感じ、ハル
カは不慮の事態に備えて手にしていたモップを構えました。
 船乗りたちの中で、とりわけ厳しい目つきのリーダー格と、
目が合ってしまいました。

「小僧、あの魚娘はどこだ?」

「え、あの人魚のこと?」

 当然ながら、それ以外にあり得るはずがありません。ハルカ
は口を閉ざすしかありませんでした。そして脚の力を抜いたの
ですが、それは間違いでした。二人の男があっという間にハル
カにつかみかかったのです。。
 狼狽したハルカは身をよじって逃れようとしました。しかし
男たちががっしりと押さえ込んでいます。

「おい、ケガさせるんじゃねえ」
 神経質そうな小柄の船乗りが釘を差します。

「へっ、ケガなんかさせるわけねえさ、相棒」

「ぶっ殺してやるんだもんな」

「おう、こいつはずいぶん魚ちゃんが好きみてえだから、一緒
に寝かせてやろうぜ」

「こいつめ、きっとあの魚娘のチチに目がくらみやがって、ず
っとそんなこと考えてやがったんだぜ」

 悲鳴をあげたハルカに重い拳が叩き込まれて、船の上の広い
甲板の上に倒されました。そして4人の男がハルカを抱え上げ
ると、その華奢な身体を海の中に放り込んだのです。
 冷たい水の衝撃が、失いかけていたハルカの五感にぼんやり
伝わりましたが、やがて…何も感じなくなっていきました。

***

 ハルカが次に感じたのは、自分の鼻の先にとまった大きなト
ンボでした。
 目の焦点を合わせようと、ハルカは青緑の瞳をしばらく閉じ
ました。

「う、うううん」
 呻きながらトンボを追い払ったハルカですが、頭がズキズキ
します。

『何があったんだ?』

 再び目を開けました。ハルカは、小さな礁湖のほとりの柳の
木陰に横たわっていました。湖は深青の水をたたえ、小さな滝
が流れ込んでいます。

『きれいなところだなあ。でもボクはどうしてここに?』

 ふと、自分の胸を押さえつけていた布が外されて、脇に置か
れていることに気づきました。誰かがここに運んでくれたこと
は明らかです。

「あ、よかったわ、気が付きましたのね」
 奏でるような声が聞こえました。

 誰の声なのか、ハルカは辺りを見回しました。でも、誰の姿
もありません。背筋がゾッとしました。

「ど、どこだ?」

「ここよ…水の中」

 ハルカは礁湖の中を覗き込みました。
 そこには、あの船から助けてあげた人魚の少女がいたのです。
その姿を、ハルカはただ茫然と見つめるしかありませんでした。

「君、しゃべれるの?」

「あたりまえですわ」
 少女が視線をそらしました。
「でも、あんな連中に利く口なんか」

 突然、ハルカの脳裏に記憶が戻り、お宝を逃して憎悪に狂っ
た船乗りたちの姿が思い出されました。そして、殴られた苦痛
をも。

「いったい、何がどうなったんだ?」
 思わず声に出してしまったハルカ。

「船の外に放り出されたのよ」

「どうやってここに?この湖の水は塩辛くないし…」

「それはね、この島の真下には真水がわき出しているの。この
池の真ん中には水中洞窟があって、海にまで通じているから、
私も泳いでこの島の中心にまで来られるの。私のお気に入りの
場所の一つですのよ」

「とってもきれいな場所だね。ここには他に人が来たことはな
いのかい?」

「おそらくは。この島は外界から護られてるから。三方向を険
しい岩礁が囲んでいるの。普通の船なら近づこうとするだけで
木っ端微塵ですわ」

「それで、ボクをここに連れてきてくれたの?」

 緑の髪の少女が、頷きました。
 この人魚の少女が救いの手を差し伸べてくれなかったら、自
分の命はなかったことを、ハルカは悟りました。

「助けてくれて、ありがとう」

「いいえ、私こそ命を助けてもらって、ありがとう」

「で、ボクの服を脱がせたのも、君かい?」
 ハルカはシャツの襟を手で合わせて、ボタンをかけ始めまし
た。頬がほんのりピンクに染まっています。

「そうよ、仕方なかったの。塩水を呑みすぎていて、その布を
巻いたままじゃ息ができなくなっていたから。人間の女の人は
みんなそんなものを着けなきゃならないの?」

 以前に着けなければならなかったコルセットがどれだけ自分
の身体を押し潰し、拘束し、締め上げていたかを、ハルカは思
い出しました。
「ハッキリ言って、これよりずっとキツイものを着けてる」
 思わずミチルは腰が引けてしまいました。

「あなたの名前は?」

「ハルカ…ああ、ちょっと不正確だな。『ハルカ』はミドルネ
ーム。本当は、ファーストネームは『アレクサンドラ』なんだ
けど、嫌いなんだ。だから、ミドルネームで通してる。ボクの
母は極東の国の出でね、ボクもイングランドからずっと離れた
その国で生まれたんだ。だから『ハルカ』って名前を付けてく
れた。『ずっと遠くで』っていう意味なんだって」

「おもしろいわね。私の名前の意味は『溢れるほどに』ってい
う意味なの」

「君の名前?」

「あ、ごめんなさい。私は、ミチル」

「みちる、かあ」
 ハルカは、その名前の響きを舌の上で転がして堪能しました。

 ハルカは改めて人魚の少女に顔を上げました。
 ハルカの目には殴られた痕が痣になって残り、白磁のような
肌には切り傷がまだ残っていました。頭がズキズキして血が一
筋流れています。あの受難から受けた傷が癒されるには、まだ
しばらくの時間がかかるでしょう。
 いきなり、疲労感が波のように押し寄せてきて、ハルカはま
ぶたが重たくなってあくびをしてしまいました。

「ごめん」
 呟くハルカ。
「もうこれ以上、目を開けていられないや」

「わかるわ。私ももう帰らなきゃ。でも二、三日したらまたこ
こに戻ってくるから」

 意識がかすんでいく中で聞こえたミチルの声に、ハルカの魂
は喜びに弾んでいました。

『また、来てくれるんだ…!』


***

三日後

***

 島を探検したところ、どうやらこの島には豊かな食糧があり、
ハルカの食欲にも十分であるようでした。この島で生きていく
ためにもう少しくつろげるようにと、あり合わせのものでハン
モックまで作って寝床にしたりもしていました。

 会心の笑みを漏らすハルカ。
『お父さまが見たら、何て思うかな』

「ハ〜ル〜カ〜!!」

 その呼び声にハッとしたのは、わずかな間だけでした。ミチ
ルが帰ってきたのです。

 ハルカが島の中央に向かっていくと、そこには美しい人魚が
待っていてくれました。池の水際にある岩の上に、ミチルは腰
掛けていました。そしてブロンドのおてんば令嬢の姿に、人魚
の少女は瞳を輝かせました。

「いてくれましたのね、待たせ過ぎちゃったかもしれないと思
って心配だったわ」

 ハルカがニッコリ笑いかけます。
「ああ、その通りさ。全部夢だったんじゃないかと思ったりし
て、ほっぺたをつねったよ」

 ミチルが笑いました。
「元気になりましたわね」

「ああ、ずいぶん良くなったよ」

 二人の目が合い、しばらく黙りこくりました。ようやく沈黙
を破ったのはミチルでした。

「贈り物を持ってきましたの」
 腰に付けた袋に手を入れて、ミチルが引っ張り出したのは
「フォーク」でした。

「これですわ」
 それをハルカに渡しながら、誇らしげに言います。

「これって?」

 急に落胆した顔になったミチル。
「あなたなら、わかると思ったのに」

 この新しい親友の瞳に悲しい色が浮かぶことに、ハルカは耐
えられませんでした。
「いや、わかるし、ちゃんと使えるよ。ありがとう」
 ハルカが少女に向かってニッコリ笑いかけました。
 ミチルも、微笑みを返しました。
 それが、この麗しい友情の始まりだったのです。

***

3週間後

***

 ハルカは半ズボンを蹴るようにして脱ぎ、そして白いシャツ
もすばやく脱ぎ捨てました。そして下着も全部外すと、ハルカ
は礁湖に向かって歩き出しました。
 穏やかな微風が、ハルカの裸身を吹き抜けていきます。波打
ち際に近づいて、つま先を浸してみます。灼けつく太陽の暑さ
に促され、また、ココナツを集め続けた厳しい日々の後でもあ
って、とにかく沐浴せずにはいられません。
 礁湖の深みにむかって歩き出しながら、ハルカは水をそっと
手にすくって汗まみれの肌に注ぎました。
 その時、いきなり池の真ん中に大きなしぶきが立つとともに
現れたミチルに、ハルカは不意を突かれました。

「ハルカ!…まあ」
 親友の姿を目にした美しい人魚は、そのまま固まってしまい
ました。

 水面はちょうどハルカの膝の下でした。何筋もの水が乳房の
間からお腹まで伝って落ちています。
『素敵…』
 ハルカの全身がきれいに日焼けしてきていることが、ミチル
には奇異に感じられました。乳首の先に水が流れ、きらめく滴
が引き締まった太股を彩っています。

 尾びれをひとかきして、ミチルはハルカのそばに近づきまし
た。そして我を忘れたように手を伸ばすと、ミチルはハルカの
ほっそりしたお尻に触れて、そのまま恭しく両脚に沿って手を
滑らせていきました。
「とってもきれい」
 そう囁くミチル。

 ミチルの手の感触に、ハルカは息を呑みました。
 敬虔なミチルの指が、ハルカの引き締まった太股のラインを
なぞっていき、そしてハルカの両膝に手のひらを当てます。自
分とは全く異質なこの肉体に、ミチルはうっとりと魅了されて
いました。

 その時初めて、ハルカの下腹部の奥に濃いブロンドの巻き毛
が生えていることにミチルは気づきました。好奇心にかられて
指を伸ばし、ミチルはそのスリットに沿って指を滑らせ、その
下に隠れた小さな肉芽に触れてみました。
 ハルカはびっくりして腰をくねらせながら叫び声をあげまし
た。まさぐるミチルの手を、ハルカがぐっと掴みます。

「ミ、ミチル、ダメだよ!」

 手を引っ込めたミチル。
「痛かった?」
 心配そうにミチルが訊きます。

 ハルカは大きく首をのけぞらせて、激しく息をします。
「いや、痛くはないんだ…すごく、気持ちよすぎて」

「よかった、それならもう一度」

「ダメ!そんなことしちゃ!」

 とまどったミチル。
「どうして?」

「だって、ボクたちは女の子同士だから…」

「私、『人間』の女の『子』ですらありませんわよ」
 ミチルは水の中から尾びれを持ち上げ、その事実を強調しま
す。

「でも、結婚だってできないし」

「まあ、それはそうですわね」

「わかってくれたね」

「ハルカ、私、わかりませんわ。気持ちいいのなら、どうして
私がさわるのを嫌がるんですの?」

 ハルカは後ずさって岩棚の上に乗りました。そして両腕を組
んで乳首を隠します。ミチルを見つめるその顔には、何とも言
えない奇妙な表情が浮かんでいました。

 急にとまどったミチルが、ハルカから離れました。
「水浴びを邪魔して、ごめんなさい」
 息を詰まらせ、なんとか涙をこらえて、ミチルは水中に潜っ
て姿を消してしまいました。

 去っていくミチルの姿に、自分がミチルの気持ちを傷つけて
しまったような気がしてハルカは淋しくなりましたが、まだ身
体の奥は震えていました。ミチルの手の感触がハルカに火を付
け、全く心の準備もできていなかったような多くの感覚を目覚
めさせていました。
 ホッと息をついて、再び水の中に戻ると、ハルカは小さな滝
の方に向かっていきました。流れ落ちる水の下に足を踏み入れ、
冷たい水に一日の汚れを濯ぎ落とします。ブロンドの髪に指を
入れ、汗で絡まった髪を指先で梳いていきました。
 もう少し考える時間が、ハルカには必要でした。

***

 ミチルはすっかり混乱していました。

 ミチルの父は力のある人魚の王であり、そして力のある人魚
はハーレムを持つのが普通です。ミチルの父も例外ではありま
せん。大勢いる娘の中でもミチルは最も美しい娘の一人でした
が、母は正妻ではありませんでした。寵愛される姫君の中に数
えられなかったのは、ミチルにとっては幸いでした。でなけれ
ば、こんなにしばしば姿を消してハルカに出会うことも無かっ
たでしょう。
 その美しさ故に、ミチルはいつの日にかどこか遠くの海の人
魚の王子さまと政略結婚することになるはずです。ミチルはそ
んな自分の運命をずっと甘受してはいました。でも、今はそん
な気持ちは全く無くなっていました。

 今はハルカとずっと一緒にいたい。
 女同士ではあるけれど、人魚の王宮でも女同士でカップルに
なってるって噂はよく聞きますもの。お母さまにだって同性の
恋人がいたってことも、とっくに知ってますわ。

***

 翌朝、日が出てすぐに、ハルカはマンゴーをいくつか摘んで、
池のほとりにやってきました。ミチルが来てくれることを、ハ
ルカは心待ちにしていました。昨日からずっと、ちゃんと謝ら
なきゃならないとハルカは思っていたのです。

『正直、ちょっと過剰反応だったよな』
 考えてみれば、自分がハダカでいたことにまごついていたこ
となんか、ミチルにわかるわけがない。だってミチルは服を着
るなんて知らないし、自分がハダカでいることを恥ずかしがっ
たりしないもの。ボクの目から見ても、恥ずかしがる理由なん
か全然…。
 でも、あの快感は…。

『もっとして欲しかったんだろ、気持ちよかったんだろ!』
 頭の中に声が響き、ハルカは心をよぎったよこしまな想いに
顔をしかめました。

「まだ怒ってる」

「え?」

「昨日のこと」

 内心の葛藤に頭がいっぱいだったハルカの前に、ミチルが姿
を現していて、まじめな顔で見つめていました。

 ハルカはホッと溜息をつきました。
「怒ってなんかいないよ」

 岩の上でミチルは両腕で頬杖をつきました。
「でも、怒った顔してるわ」

「ね、これ、どう?」
 話題を変えて、ハルカはミチルに切り裂いたマンゴーを一個
手渡しました。
 ミチルはオレンジ色の果実を手にとりました。注意深く観察
してから、匂いを嗅いでみます。

「ハルカも食べた?」

「うん。試してごらんよ」

 おもしろさ半分いらだち半分で見つめるハルカに、ミチルは
ギュッと目を閉じて、そっと舌先で舐めてみました。
 口の中にはじける美味。
「ん〜〜、甘〜い!」
 ミチルはたちまち分けてもらったぶんを平らげて、またハル
カを見上げました。

「もっと欲しい?」

「うん!!」


***

イングランド、ロンドン

***

 テノー公爵は書斎で歩き回っていました。
『アレクサンドラはどこに行ったのだ?』

 娘の姿を見なくなってすでに半年が過ぎていました。調査員
は娘が波止場の近くまでいったことを突き止め、そこから先を
追跡にかかっていました。当然ながらそれは女性ではなく、1
6歳くらいの少年、という情報を頼りにしていました。それが
自分の娘であることを、公爵は明かさないようにしました。そ
んなことをしたら、娘の破滅です。

 公爵は信頼の置ける数名の家来をつかわして、船乗りたちが
溜まり場にしている宿屋に行かせました。東洋から戻ってきた
船に、アレクサンドラを見かけた者がいるかもしれないからで
す。
 暗くなっていく黄昏を、公爵は見つめました。望みは娘が戻
ってくることだけでした。


***

二人の島

***

 夜です。ハルカは池のそばの岩の上に横になっています。
 その岩の付け根に水が押し寄せ、ミチルが持たれて座ってい
ます。
 こんなふうに腰を落ちつけ、二人は夜遅くまでずっと語りあ
かしていました。夜空は澄み切っていて、頭上には青い天鵞絨
のような真夜中の夜空が世界を覆い尽くし、その上に輝くダイ
ヤモンドが無数に散らばっていました。
 その壮麗な光景に、人間と人魚の少女二人は、ともに魂を奪
われていました。

「ハルカ?」

「なんだい?」

「あなたのお父さまには、何人奥さまがいるの?」

「ボクの知る限りじゃ…ボクの母さん一人さ。それも今じゃ、
この世の人じゃないけれどね」

「お母さまは亡くなられたの?ごめんなさい、悲しいことね。
でも、お父さまには他に奥さまはいないの?つまり、同時には?」

 はっとハルカは理解しました。
「いや、ボクの国じゃ一夫一婦なんだよ」

「でも、お父さまのように連れあいに先立たれたら?」

「ああ、普通は再婚して後妻を迎えるね。でもたぶん、父さん
はまだ本当に好きになった女性に巡り会ってないんだ」

 少し黙り込んだミチルが、やっと言いました。
「ハルカは、もう誰か特別な人がいるの?」

「え?」

「つまり、誰か結婚したい男性がいないの?」

「ボクが?まさか。あのバカでかいフリルひらひらのドレスを
着込んで、気取った貴族なんかの言いなりになるなんてまっぴ
らだ。ボクは風のようになりたい。飼い慣らされるのは御免だ
よ」

『ドレス姿のハルカ?』
 頭に浮かんだ間抜けな想像を、ミチルは頭を振って払いのけ
ました。
 ミチルは以前に一度、ドレスというものを見たことがありま
した。回収隊の一人が沈没船の中から見つけ出して、王宮に運
んできたのです。その何層もの布とその下の骨組みの奇妙な代
物に、みんながかわるがわる覗き込みました。
 ミチルの目にはドレスはずいぶん非実用的なものに映りまし
た。もしハルカが海に投げ込まれた時にあんな服を着込んでい
たなら、きっと溺れて海の底に沈んでいたことでしょう。あの
時はミチルも弱っていましたから、おそらく自分が逃げるのが
精一杯で、この友人を溺れたままにしていたかもしれません。
 夜の空気は暖かいのに、そう思うとミチルはゾッとしてしま
いました。
 そっと手を忍ばせて、ミチルはハルカの半ズボンに触れて、
その下の肌の温もりを感じて心を落ち着かせました。そうやっ
て触れあっているだけで、ミチルは満たされていました。

 ハルカは岩にもたれて、夜空を見上げました。
「ここの星は、きれいだなあ」
 じっと眺めるハルカ。

 ミチルも顔を上げ、同意するように頷きます。
「あなたに出会うまで、私、星の美しさなんて気づきもしませ
んでした」

 ハルカが手を伸ばし、ミチルの髪の絹のような巻き毛に指を
滑らせました。
「ボクの国にはね、星にまつわる伝説や言い伝えがたくさんあ
るんだ。…特に、流れ星には」

「星が流れるの?」
 驚きにミチルが息を呑みました。疑わしそうにハルカの顔を
見上げたミチルですが、親友の顔には騙すような色は見えませ
ん。

「そうだよ。ボクの乳母が言ったんだ。流れ星に願い事をして、
良い子にしていれば、願ったことが必ずかなうんだって」

「本当?素敵だわ」

「でもね、一つ気を付けなきゃならない」

「何?」

「その願い事は、誰にも言っちゃいけない。でないと、かなわ
ないんだ」

 頷いたミチルの顔は、幼子のような輝きに満ちていました。
 そんなミチルに、ハルカは微笑みかけました。

「君たち人魚には、こういう伝説は無いの?」

「そうですわね、ナマコをペットに飼うと、思いも寄らない悪
いことが起こる、とか」

「ほんとにそうなの?」

 愛くるしいミチルの顔がちょっとしわを寄せました。
「いいえ、ナマコをペットにすること以上に悪いことが起こる
なんて、考えたこともありませんわ」

 その言葉にハルカがふっと笑いました。

 ミチルの視界の隅に、何かキラリと光るものがかすめました。
濃紺の夜空を何かが駆け抜けました。昂奮して尾びれを跳ねて
ミチルが水の中から出ました。突き出た岩の上に片手をついて
身を起こし、ミチルは指差しました。

「ハルカ!あれね、流れ星!私、見たわ、ね!!」

「そうだよ」
 ハルカの声も嬉しそうです。

「お願いをしなくちゃ、ね?」
 昂奮しながらミチルが親友に言います。

「君が生まれて初めて見た流れ星だものね」

 ミチルの視線が、空からハルカの顔に移りました。月光が水
面に映り、二人を柔らかな光で包みました。笑みをたたえた目
が合い、視線が一つになりました。その瞬間、ミチルは心の底
から、自分も人間になってこの愛しい存在をずっと見つめなが
ら生きていきたい、と願いました。

***

「旦那さま!旦那さま!お嬢さまの行方がわかりましたぞ!」
 小柄な男が息を切らせました。
「お嬢さまは、す、すい…」
 何とか息を整えようとします。

 公爵は新たな知らせにいきり立ちました。
「デルウッド、少し落ちつけ、何を言いたいのだ?」

「…申し訳ありません、旦那さま。つまりでございますね、お
嬢さまはここを逐電されてから水夫に身をやつしたのです。
『シー・キング』号という船と、下働きの身分で契約を交わし
ておられました。船員の一人が、姿の特徴を聞けばわかると」

「だが、口外してはいないだろうな、その…」

「もちろんでございます、旦那さま」

「よろしい。…よろしい。その船員はどこにいる?わし自ら問
いただしてみよう」


***

酒場「錆びた錨亭」にて

***

「ああ、よく覚えてるぜ。やせっぽちの小僧だろ。藁みたいに
金色の髪でな」

「ああ、あいつだ」

「あの小僧が、アンタの息子なのかい」

「そうだ、わしの『息子』だ。どこに行けば会える?」

「教えてやったご褒美はあるんですかい、ダンナ?」

「むす…息子と再会させてくれれば、高額の報償を約束しよう」

「へえ、なら引き受けてもようがす」
 その船乗りがニヤリと笑いながら、隣に座っていた男を肘で
つつきました。

 取引を一部始終見ていたデルウッドは不安でしたが、公爵は
全く気にもとめませんでした。公爵の頭はアレクサンドラを見
つけることでいっぱいだったのです。


***

島

***

 ハルカは水辺に腰を下ろしています。…全裸で、両脚を水に
浸しながら。
 ハルカはミチルを心待ちにしていました。互いに気の置けな
い存在になって、ミチル自身がハダカでいることを恥ずかしが
ったりしないんだから、自分だって、とハルカは思ったのです。
 ハルカとミチルは、隠さずに語り合う中で互いを理解してい
きました。そして日一日と、親密さを増していきました。…た
だ一つを除いて。
 あの時人魚姫が触れてきたところがものすごく敏感なことを
知った、あの淫らな気持ちになった日のことを、ハルカは思い
出しました。何度もあの日のことを思い出しては、あのままだ
ったらどうなっていたかを夢想してしまうのです。

 目の上に手を当てて、ハルカは呻りました。
『…バカだな』
 考え込むハルカ。
『あんなチャンスを逃すなんて。また同じようなことがあるか
わからないのに』

 ごろりと横になって横を向き、ハルカはミチルへの贈り物に
目をやりました。それは、島の南側に生えているのを見つけた
美しい花でした。こんなに美しい花を、ハルカは見たことがあ
りませんでした。それは、熱帯のオニユリの亜種のようでした。
花びらは柔らかいピンク色で、小さな斑点がたくさん付いてい
ます。
 ミチルもきっと気に入ってくれる…ここに来てくれたら…。

 その時ハルカの耳に聞き慣れた水しぶきの音が聞こえ、池の
中央に親しい友が姿を現しました。

「ハルカ、遅れちゃってごめんなさい、今日は全員がお父さま
にご挨拶しなくちゃならなくって、それで…」
 ミチルの言葉が、起きあがったハルカの姿を見て途切れまし
た。ハルカに対してまともな反応を制御できなくなってしまっ
たのです。あっという間に頬が真っ赤に火照り、言葉が出なく
なってしまいました。
「そ…れで、お…くれて…しまって…」

 その様子にハルカはニコリと笑いました。ミチルも自分を意
識してくれてるとわかったからです。

「ミチル、プレゼントがあるんだ」

 まだ頬をピンクに染めたまま、青い瞳を伏せながら、ミチル
が近づいてきました。
 ハルカが手を伸ばして、ミチルのあごを持ち上げ、目を合わ
せました。

「君のために」
 そう言いながらハルカが、ミチルの鼻先に花をちょんと当て
たのです。
 嬉しさに、ミチルは息を詰まらせました。

「ああ、ハルカ、とっても綺麗!こんなの見たのは初めて。そ
れに、こんなものを今まで私にくれた人もいなかったわ。とて
も素敵だわ…」

 最後の言葉は囁くようになって、ミチルはそっと花びらを撫
でました。
 衝動に駆られて、ミチルは水の中から身を伸ばすと、ハルカ
の頬にキスしようとしましたが、その直前、ハルカが顔を向け
て二人の唇が触れあったのです。
 ミチルははっとして、ハルカの黒い瞳に訝しげな視線を投げ
かけました。
 その答えに、ハルカはミチルの顔をそっと両手で包むと、そ
の唇を人魚の少女の震える唇と重ねたのです。

 ミチルは全身全霊でそれに応え、自ら上がりきって、ハルカ
にぴったりと身を預けました。お腹の内奥からズキズキするも
のを感じたミチルは、いきなりもっと求めてきました。ハルカ
の秘密の場所にもキスしてあげたくなったのです。それはきっ
とハルカも望んでいることだと、ミチルにはわかりました。

 ミチルはハルカの引き締まった下腹部に手を滑らせ、股間の
ブロンドの巻き毛に指を這わせました。
 ハルカはそっと喘ぎながら、優しい愛撫に合わせて腰を浮か
せます。
 ミチルはハルカのおへそにキスして、それから顔を乳房にま
で上げると、しこった蕾を優しく刺激しました。
 ハルカの口から漏れるハスキーな喘ぎ声に、ミチルはますま
す燃え上がります。これ以上我慢できなくなって、ハルカはミ
チルの抱擁の中で身をよじりました。日焼けした肌を汗に濡ら
し光らせながら、ハルカは手の届かないところに浮かぶような
快感の頂点に達していました。
 いっぽう。ミチルはハルカの濡れた秘部に初めて舌を触れさ
せようとしていました。

 冷たい岩の上でのたうつハルカに、ミチルがハルカの美しい
秘所、とりわけ悦楽の蕾を集中的に舌で舐め回しました。激し
い舌の動きにハルカはギリギリにまで追い込まれ、滑らかに渦
を巻く舌の動きがハルカを押し流します。
 ハルカが太股をギュッと締めますが、ミチルの手は執拗に離
れようとはせず、膨れあがる感覚がハルカの最初の絶頂をずっ
と激しいものにしていきました。
 ハルカは腰をえびぞらせて、絶頂の痙攣にビクビクッと跳ね
上がり、くぐもった絶叫が岩礁に響き渡りました。

 茫然とした表情のハルカに、ミチルは微笑みかけて、恋人の
裸身をそっと愛撫するようにしながら、水の中に降りていきま
した。
 こうして二人で登ったステップですが、これからどうしたら
いいのかはミチルにもよくわかりませんでした。

「みち…る…」
 ハルカがそっと呼びかけました。

「ここよ」
 顔を上げたハルカが水の中のミチルを見つめました。ニッコ
リ笑ったハルカが、ミチルの側に飛び込みました。その両腕が
人魚の少女の胴体を抱きしめます。

「気持ちよかった。ね、人魚もあんなふうにするの…?」

「知りませんっ!」

 その返事にハルカは驚き、ミチルはひどく赤面しました。

「知りません、だって?」
 金髪の美女は恋人の言葉を鸚鵡返しに繰り返しました。

「結婚するまでは、内緒」

「…え?」
 それを聞いて、ハルカも同じように顔を赤くしていました。
「そうなんだ、じゃ、こっちにおいでよ」

 ハルカはミチルを引き寄せて、肩にキスし始めました。
 気持ちよさに、くうんっと呻くミチル。顔を寄せたハルカが、
小さな貝のようなピンクの耳にそっと囁きかけました。

「愛してるよ」

 ミチルは、小さく息を呑んで、ハルカに身をすり寄るばかり。
 魚の尾びれと人間の脚を水の中で絡みあわせながら、二人は
一つに丸まって顔を寄せ、身体をすりあわせて細波を立てなが
らゆらゆらと揺れました。
 それはまるで、ダンスでした。単調な、しかし、切なく求め
合った二つの魂にとってはこの上もなく貴いリズムに乗った、
ダンスでした。


***

公爵の船「タリズマン」号の船上

***

 公爵は船の舳先に近い甲板に、酒場で見つけた三人の船乗り
とともに立っていました。船乗りたちは、公爵にとっては不愉
快な存在でした。船の準備をさせて、翌日に出航したのですが、
出航前に乗組員を定員まで揃えて安全を確保する余裕はなく、
そのため公爵はこの連中に船を任せるしかなかったのです。

「船長が息子を置き去りにしたのがこの辺りというのは、確か
かね?」

「そうでさあ、ダンナ。ここですここ。小僧は、この先の島に
行きたいって言ってたんでさあ」

 デルウッドが失望した顔を見せました。
「いったいどうして、おじょ…お坊ちゃまがそんなところに行
きたいなどと?」

「ダンナに申し上げたとおりで、小僧がどう考えてたかなんか
わかりゃしねえよ」

「よい。行こうではないか諸君。息子を見つけられるかどうか
が問題だ」

***

 動くのもつらいほどに蒸し暑い日になりました。
 ハルカはハンモックに寝転がっています。服は汗でべったり
と肌に貼りついてしまうので、小さく仕立て直していました。
 ハルカは夢の世界を漂っていました。

「ハルカ!船が来たわ。入り江に入ろうとしているの。起きて!」
 ひどく昂奮したミチルの声。

「何だって?」
 疲れた声でハルカが訊き返します。

「船よ!」

 すっくとハルカが立ち上がりました。サッと服を整え、全速
力で入り江に駆けていきました。
 間違いなく、水平線に船が見えました。ですがその船はあれ
以上は動きません。岸から離れたところに錨を降ろし、後は小
さなボートで残りを漕いでくるはずです。

 ハルカはボートの航跡を探しました。そしてやっと岸から2
00ヤードのあたりにボートの影を見つけました。そしてハル
カは目をこらして、再び見つめました。

『まさかあれは…』

 船が近づいて来るにつれ、それは確信に変わりました。

 お父さま…それに、あの船にいた悪党ども…。どうしてお父
さまがあいつらと一緒に?どうやってここがわかったんだ?

 いきなり、男たちの一人が背後から公爵に掴みかかろうとし
ているのが目に入りました。

「いけないっ!」
 絶叫するハルカ。その叫びに父がこっちを見ました。
 公爵の金を目当てに隙を見て飛びかかった船乗りが、金を奪
うと公爵を海に突き落としました。

 あとの二人がボートにいたもう一人を海に放り込むと、ごろ
つきどもはボートを漕いで島から離れようとしました。
 ハルカは海に飛び込んで追いかけましたが、まるで氷山に当
たったかのようにボートが不安定にぐらつき、そして完全に転
覆するのが見えました。そしてちらりと、緑の髪が目に入りま
した。

「ミチル!」

 三人のごろつきは海面に出てザバザバと島に向かって泳ぎ出
しました。悪漢たちに放り出された一人は、すでに足が立つと
ころまでたどり着き、ハルカの方に近づいてきました。

 波打ち際をバシャバシャとやってくる男が誰なのか、ハルカ
にもやっとわかりました。典型的な眼鏡の小男のイギリス人…
彼は何度も冷たい海に転びました。

「デルウッドか?」
 あやふやな声で、ハルカが訊きました。

「アレクサンドラさまで?」

 そこに、お宝のためにハルカを追い払おうと、ならず者の船
乗りたちが波を蹴立ててきたので、二人の会話は中断されまし
た。そのうちの小柄な痩せぎす男が、岸に着いて仲間と合流し
ました。そしてハルカに向かって手に持った短刀を振りかざし
て突っこんできます。凶暴な叫び声を上げながら、狙った獲物
めがけて突進します。

 ハルカの心の奥で長く眠っていた何かが目を覚ましました。
サッとサイドステップでかわすと、男は横を通り過ぎました。
ですが十分に離れられなかったために、短刀の切っ先がハルカ
の二の腕をかすめて切りました。その痛みがハルカの感覚を呼
び戻しました。
 つま先を軸に回転しながら、ハルカは倒れた男のあばらに強
烈なキックを叩き込みました。男は短刀を持ったままくるりと
一回転し、そこをハルカが腕をとってひねりあげ、肘関節を脚
で踏みつけました。激痛に悲鳴をあげた男から、ハルカは短刀
を取り上げて、冷静に喉を切り裂きました。

 手にした凶器にしっくりしたものを感じたハルカ。振り返っ
てハルカは残りの二人に向かいます。
 一人が方向を変えて、デルウッドに向かって行き、もう一人
はそのままハルカに向かってきました。

 ハルカの首を狙って、男は狂ったように怒鳴りました。
「てめえの息の根止めたら、あの魚娘は俺たちのもんだ、てめ
えのことなんか忘れさせてやるぜ」

 ハルカは手にした短刀の重みを確かめました。
『よし、こいつで…』
 いつ覚えたか忘れてしまったテクニックを使い、ハルカは突
進してくる男に向かって短刀を投げつけました。陽の光に金属
がきらめき、空を切り裂いて短刀は男の胸板を貫きました。
 男は足元に崩れ落ちて息絶えました。

 最後に残った男が、執事より先に若い「お坊ちゃま」の片を
付けた方が良いと判断しました。
 気を引き締め直して、ハルカは突っこんでくる男を迎え撃ち
ます。しかし男はハルカに突っこんで、そのごつい手で喉笛を
掴みとりました。
 そのまま喉を絞めようとした瞬間、いきなりの雷鳴のような
轟音が響きました!
 男は動かなくなりました。

 ハルカは男の死体を上からどかし、見ると、デルウッドがそ
の手に小さなデリンジャー銃を構えて立っていたのです。

「お元気なご様子、祝着です。アレクサンドラさま」

 ハルカも執事に笑いかけました。
「ボクも君に会えてよかったよ」

 はっと同時に公爵のことを思い出した二人は、海の方に向か
って狂ったように手がかりを探しました。

***

 引き波に流されて岩礁に叩きつけられた公爵が喘ぎました。
助けを求めようとしましたが、無情な波に再び水中に押し返さ
れてしまいました。公爵は娘の助けが必要でした。そしてもが
きました。

 ハルカの父の姿を最後に見た場所に向かって、ミチルが泳ぎ
出しました。力強い尾びれの動きに、どんな人間も及ばないほ
どの速さで進んでいきます。そこは岩礁のそばであることはわ
かっていましたが、その時のミチルはそんなことを気にはしま
せんでした。
 目標の存在を前方に確認し、ミチルは手を伸ばして、服の生
地の感触を手に感じました。

『つかまえた!』

 ミチルは公爵の身体を引っ張り込んで、今落ち込んでしまっ
た状態から脱出させようとしました。
 しかし、ミチルは自分も同じようになっていることに気づき
ました。ここから抜け出す方法が見つかりません。ミチルは老
人を抱きかかえて、その頭を水面に持ち上げてやることしかで
きなくなりました。

 公爵は水面に顔を出すと、咳き込んで肺から水を吐き出し、
貴重な空気を吸い始めました。その下で、ミチルは必死になっ
て、いつもは自分の味方である元素と戦っていましたが、荒波
は容赦なくミチルを危険な岩礁に叩きつけます。ミチルは全身
で公爵をかばいながら、苦痛に耐えなくてはなりませんでした。
それはミチルの想像以上の酷さでした。
 フジツボがミチルの尾びれを大きく切り、肉をえぐり、柔ら
かな両脇を引き裂きました。傷口から血が流れ、開いた傷口に
染み込む塩水が焼けつくように痛みます。

 泳ごうとしても、何かがミチルを押さえ込んでいました。最
後に残った力を振りしぼったミチルは、奇跡的に自分を押さえ
つけている水の力から逃れ、公爵と自分を岩礁から脱出させて、
岸部に向かったのです。

***

 船から二艘目のボートが岸に近づいてきていたことにも、ハ
ルカは気づきませんでした。そこには父が信頼する数名の船員
が乗っていました。公爵が少数で船を離れていった時には気に
しなかったのが、今や必死になって主人の跡を探しに来たので
す。

 ハルカはパニックになっていました。
 お父さまはどこに?ミチルは、どこに?!

 突然、岸から数ヤードの海面に父の白髪が現れたのが見えま
した。ハルカも船員たちも、公爵の元に駆け寄りました。

「お怪我をされている!」
 誰かが叫ぶのが聞こえました。

『なんてことだ、まさかそんな!』

 船員たちが咳き込む公爵の腕をとって立たせました。

「お怪我をされましたか、旦那さま?!」

「いや、大丈夫だ。しこたま塩水を呑んでしまっただけだ」
 苦笑を浮かべて言いながら、公爵は自分の命を奪いかけた塩
水を見つめました。

 その言葉に返答しようとした船員の言葉が、悲痛な叫び声に
遮られました。
 振り向いた公爵が見たものは、自分を助けてくれた少女を抱
きかかえて揺さぶる愛娘の姿でした。ほとんど二つに切り裂か
れかけた尾びれからは、血がどくどくと海に流れ出していまし
た。
 その光景に目を白黒させた公爵でしたが、ほぼ30年以上も
海の経験がある中でも、実際に人魚を見たのは初めてのことで
あることは確かでした。
 …そして、その人魚は死にかけていました。

 ハルカはミチルを抱き寄せました。血の気を失った唇と、青
白くなった顔に、ハルカは怯えました。

「ミチル!ダメだ!」
 すすり泣くハルカ。
「もう、ボクを一人にしないで!」

 その言葉が、ハルカ自身の魂を締め上げます。

「愛してるんだ、ミチル、お願い、行かないで!」

「…は…るか…」
 あまりにも微かな声に、最初は幻聴かもと思ったほどでした
が、そこに氷のように冷たくなった手がハルカの頬に触れまし
た。

「しゃべらないで!」
 ハルカが押しとどめようとします。

 それを無視してミチルが言いました。
「ハ…ルカ…、あ…いして…います……」
 最期を迎えてミチルのまぶたが閉じ、同時に息が絶えてしま
いました。

「いやああああっ!!!」
 ハルカは血に染まった浜辺にがっくりと膝をつき、ミチルの
亡骸に取り縋りました。

 人々は岸辺に立ちつくすだけでした。今なにが起きたのかハ
ッキリとは理解できませんでしたが、それでも全員が心の中に
深い悲しみを感じていました。誰もがその魂の底から放たれる
苦痛にとらわれていましたが、人魚の身体から流れたはずの血
が元に戻っていったことに気がついた者は一人もいませんでし
た。

 突然、海から大きな波が押し寄せました。
 しかし、それは海水ではなく、銀色に輝く光でした。
 それが死せる少女を包んだと見るや、すがりつく恋人の手か
らその身体を持ち上げたのです。
 永遠にミチルに触れられなくなることを怖れたハルカは、必
死になってミチルを掴まえようとしましたが、銀の光はさらに
少女を地上数フィートまでも持ち上げました。
 ハルカの耳に轟くような音が響き、そして銀の光が傷だらけ
のミチルの下半身を包み込みました。

 それは少女の無私の行いに対しての、そしてたった一つの純
粋な祈りに対しての「明示」でした。いや、まさにそれ以上の
もの、そして不滅のものでした。

 光が人魚を包み込むや、体組織が変化していき、鱗は滑らか
な肌に変わり、尾びれはコーラルピンクの爪が付いた華奢な足
に変わりました。そして最後に光が輝くと、ミチルはゆっくり
とハルカの足元の浅瀬の上に降ろされていったのです。
 急にミチルの胸が大きく膨らみ、そして美しい青い瞳がパッ
チリと開きました。

 ミチルはかつて尾びれだったところが今どうなったかを目に
すると、ハルカの目を見上げました。ハルカはまだ涙を流して
いましたが、ミチルはそんなハルカに優しく囁きかけました。

「見て、願いがかなったのよ」

 その言葉にハルカがどっと流した涙が、頬を伝っていきまし
た。
 自分の完璧な姿を食い入るように見つめながら、ミチルはハ
ルカから離れて、自分にとって初めての器官である「足」の動
きを確かめてみようとしました。
 何回か失敗した後、ミチルは立ち上がって、ふらつきながら
も生まれて初めて「歩き」、ハルカの広げた腕の中に飛び込ん
でいきました。

 ハルカは、心から愛する愛しい魂を宿したか弱い身体を抱き
かかえました。二人の頬を涙が伝いました。
 もうハルカはこらえられずに、そっとミチルの顔を指先で持
ち上げると、柔らかな唇を自分の唇と重ねました。
 まるでハルカの腕の中で溶けていってしまうかのように、ミ
チルは身を反らせました。その手はハルカのシャツの生地をぎ
ゅっと掴んでいました。

 びしょ濡れの公爵はその様子を緑の瞳を丸くして見つめてい
ました。そこには、美しい全裸の、女の、海の妖精を情熱的に
抱きしめる愛娘の姿があったのですから。
 気まずい苦笑をデルウッドに向かって表しながらも、できる
ことはこれしかないと考える公爵でした。

 公爵はハルカとミチルに近づきました。
 ミチルとのキスでまだちょっとぼうっとしたままの目を上げ
たハルカでしたが、まだ油断なく身構えていました。すっくと
進み出て、ミチルを守るように背後にかばいます。

 しかし、父親が大きく抱擁してきたことに、ハルカは驚かさ
れました。公爵は何度も…かなり強く、ハルカの背中を叩きま
した。怪我をした二の腕に、ずいぶん響きました。

「我が『息子』よ!たった一人の『息子』よ、やっと戻ってき
てくれたな」

 ハルカは苦笑するしかありません。

 お父さまはボクを愛してくれてはいるけど、やっぱり骨の髄
まで「貴族」なんだよな…。

 ハルカは、父を抱き返しました。

「父上」


***

3ヶ月後

***

 テノー公爵の一人娘であるアレクサンドラ嬢の急逝の知らせ
は、ロンドン中に広がりました。この冬の厳しい寒さに、流感
に罹って亡くなったということでした。
 人々は公爵家を誰が受け継ぐのかと考えました。

 街中に明るい、かつスキャンダラスな知らせが舞い込みまし
た。公爵の娘には、実は生まれてすぐに誘拐された双子の弟が
いたというのです。しかもその若様がなんと、美しい花嫁とと
もに帰国してきたのです。
 ある者は、その花嫁ははるか遠くの小さな王国の姫君だと言
いました。…少なくとも、花嫁は遠くの国の出に違いないと。
 なぜならその髪は緑色だったのですから!

 新婚の次期公爵夫妻を記念して、公爵は壮麗な大舞踏会を開
催することにし、その入場券はものすごい勢いで売れ尽くしま
した。公爵は知り合いのゴシップ屋や未亡人たちの多くを招い
たので、ロンドンの社交界におけるあらゆる階層に、二人のロ
マンティックな物語が広まるのは確実でした。

***

 ハルカは寝室の扉の前に立ちました。

「準備できたかい、ミチル?」

「ちょっと待ってくださいな」

 音楽のようなミチルの声が、クローゼットのある方向から聞
こえてきました。

 いきなり、ラベンダー色の手袋をはめながら、ミチルが姿を
現しました。

 ハルカの胸から大きく溜息が漏れました。
「うわあ…」

 くるりと一回転して新品のドレスを披露するミチル。
「どう、気に入ってくれます?」

 ハルカは息を吸うのも数秒間、忘れていました。

『気に入ってくれます?だって?』
 気に入らないわけ、ないだろ!

 ラベンダー色のドレスの陰影は、その海の色の髪を完璧に補
完していました。ミチルの髪と言えば、後ろにひっつめにして、
豊かな髪の房には菫の花を織り込んでいたので、顔を菫の花で
囲むように彩ります。
 その服でハルカの一番のお気に入りの部分は、肩が露出する
ネックラインと、何度もハルカが見てしまうほどにミチルの豊
かな胸が見える襞飾りのラインの低さでした。もう三時間前か
ら、ハルカはその乳房に触れていません。ミチルはコルセット
を着けていません。その必要がないからです。おそらくは後ほ
どにハルカは「愛妻」が何も着ない姿をその目にすることにな
るのでしょうが。

 ハルカがミチルのドレスに見とれているその一方で、ミチル
もまた恋人の凛々しい姿から目を離せませんでした。
 金の錦織が入ったダークブルーのロングコート。首が襞折り
の白いシャツ。ブルーストーンで留めたカラー。そして、ネイ
ビーブルーのカマーバンドを締め、そのスレンダーな腰を強調
するピチピチにフィットした青いズボン。

 互いの姿にしばらくの間、二人は見惚れたまま立ちつくして
いました。

「…さて、参りましょうか、ミチル」

 ハルカの黒い瞳をミチルは見つめ返しました。
「ええ、喜んで」

 ハルカはミチルの手をとって、暖かく抱きしめると、肘を曲
げてミチルの手を置かせました。
 二人は連れだって、階段をゆっくりと下り、舞踏会場にと歩
を進めていきました。


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