甘い同盟

 

第10話


 微かなどよめきのような、窓に当たる土砂降りの雨音のよう
な音が伝わりだす中、エアロックが開かれると、数万人の大歓
声が興奮とともに一斉に沸き上がった。
 歓喜の叫び、言葉にならない声。多くの良き想いが音となっ
て川の流れのようになり、まるで一つの声となって巨大な存在
が語っているかのようだった。

 金光の王女たる白眉魎呼は、ぎゅっと歯を噛みしめてその顔
に強烈な不快感を表さないようにした。その音が、成層圏での
ドッグファイトの轟音と、戦場で吶喊する幾千の兵士の声なき
叫びや銃声と、火器の発射音とあまりにも酷似していたからだ
った。思い出したくない膨大な記憶が再び魎呼の脳裏に沸き起
こり、一瞬、本当に膝がガクガクしてくるのを感じていた。

 魎呼がふらついてしまいそうになった寸前、巫薙がスッと背
後に進み出て、外の群衆や前に立つ樹雷の一行の目に入らない
よう、そっと魎呼の背を支えた。
 気を取り直した魎呼はちらっと背後のオレンジの髪の衛士を
見やると、巫薙の顔にはあまりの重圧に目の回りに隈が浮き、
唇が青くなっていた。反対側を一瞥すると、成羽の顔も石像の
ようにこわばり、まるで生気のない仮面のようだった。
 しかし、母の鷲羽といえばまるっきり平気な顔で、全く申し
分のない外交的な笑顔を見せていた。

 再び前を見据えた魎呼の視界の隅に、やはり振り返って自分
を見ている阿重霞の姿があった。樹雷の皇女は不安げな表情だ
った。
 巫薙が自分を支えてくれたのを阿重霞が見てしまったのか、
それとも婚約者の狼狽ぶりに気づいただけだったのか、と魎呼
は思った。どちらにせよ、今は何も言えないし、どうしようも
ない。

 音楽の吹奏が始まり、一行は厳粛に歩み出した。魎呼も何と
か完璧に立ち続けたが、正直すぐさま回れ右して逃げ出して、
船のどこかに隠れてしまいたい、とさえ思っていた。

 双児の樹雷の木は、広大無辺な樹雷皇宮の一翼にある巨大ド
ームの中にと降下し、平坦な円形の床に着陸した。ドームの一
角から船に向かって幅広の通路が一直線に伸びてきて、最も広
い船腹のエアロックに接続した。通路はそのままアーチ道に繋
がり、またドーム内にはいくつもの出入り口と水平のリングが
並び、その立ち見席には樹雷人やその他の種族が群がって、皇
家の姫妃たちの帰還と、同時に新たな訪問者である金光の女王
と王女を見に来ていた。

 通路を進んでいった到着の一行を待ち受けていたのは、宇宙
で最も強力で重要な存在であると多くの者が見なす人物、樹雷
の支配者たる、樹雷皇・阿主沙だった。

 皇の脇侍には6名の皇宮近衛兵が控えている。彼らは奇妙な
ことに目を隠した兜を被り、その目と頭の上三分の二の周囲を
樹雷の木が帯のように取り巻き、その両脇から白い布を耳から
後頭部を覆うように垂らしていた。その服は白地に錆色、くす
んだ緑、オレンジ色が秋の紅葉のように螺旋状に配されていた。
 しかし彼らが取り巻く樹雷皇は、それよりも頭一つぬきんで
て背が高く、その暗褐色と緑のローブ姿は、皇自身を、葉が散
った巨木のようにすら見せていた。
 また、樹雷皇は完璧に刈り込まれた豊かな美髯に、肩まで届
くみずらに髪を結っており、さらに豊かな黒髪を後ろに軽く束
ねている。
 その広い肩幅やがっしりとした体格は、その服装のせいでも
なさそうだな、と魎呼は思った。

「ようこそ!」
 そう言った樹雷皇の言葉が、技術的にか建築構造的にか、着
陸エリア全体に鳴り響いた。
「わが同胞たる統治者よ!金光の友たちよ!宇宙の中心たる、
この樹雷にようこそ!」

 笑っちまったら最悪!…特にこんな引きつり笑いなんかした
ら…と、魎呼は腹に力を入れて必死でこらえた。

「長い道のり、大儀であった。また、話し合わねばならないこ
ともあろう」
 そう言い続けた樹雷皇に、また怒号のような歓声と拍手が群
衆から沸き起こった。

 そっと前に進み出た鷲羽が明瞭に語り出した。魎呼はついお
立ち台があったのかと思いこんでしまったが、それは見た目は
チビな金光の女王のハスキーボイスが樹雷皇とひけをとらない
ほどよく通ったからだった。

「感謝いたします、樹雷皇。この国の人々と同盟を求め、こう
して長い道のりをやって来ました…。後の世代に渡る友好と協
力関係を期待しますわ。何年かだけのではなく、ね」

 樹雷皇の頬が引きつるのが目に浮かぶぜ、全くおっかさんに
は感謝の嵐さ、吹き出しそうだった笑いがやっと収まってくれ
たからな、と魎呼は思った。
 鷲羽はこの歓迎ぶりから判断し、巧みに樹雷皇が抱える決し
て軽くない山積する問題に向かってチクリと釘を刺したのだ。
ほとんどこの宇宙で公然の秘密である、樹雷皇がいかに親バカ
で、「後の世代」と鷲羽が言ったのが、溺愛する長女と宇宙海
賊との子供のことを含んでいることに、いかに歯ぎしりしてい
るかということに。

「まあまあ」
 樹雷皇は強いて笑みを保ち、驚きなどおくびにも出さなかっ
た。

 美砂樹さまも船穂さまも、おもしろがってやがんの。…二人
とも樹雷皇にこんな言い方したことなんかないだろうな。

 踵を返してアーチに向かう樹雷皇は、群衆には見えないロー
ブの陰で地団駄を踏んでいただろうが、魎呼にはそれをはっき
り確認することはできなかった。

『樹雷人を怒らせる才能は、こりゃ遺伝だな』
 金光の王女は嬉しくなり、さっきまでの憂鬱や困惑をかなり
解消しつつ行列に付いていった。

***

「いとしい娘よ!」
 ドームのお立ち台の時と同じくらいの大声で叫びながら、樹
雷皇はその逞しい両腕で阿重霞を鷲掴みにして抱え上げたので、
皇女は父皇のはしたない振る舞いに怒ったような悲鳴をあげた。
 今となっては自制する必要もなくなって、魎呼はずっと腹に
ためてきた笑いをヒーヒー言いながら吐き出し、身を屈めて壁
に手をついて大声で延々と笑いすぎたので、ほとんどヘナヘナ
になってしまった。

「どこにもケガなどしなかったな?」
 重々しく、わざと魎呼を無視するように、樹雷皇は娘を床に
降ろして心配そうに見やった。
「あやつとケンカなどしてひっかき傷など無かったか?貞節は
無事であろうな!?」
 そして樹雷皇は魎呼をジトっと睨んだ。

「お父さま!」
 顔を真っ赤にして金切り声をあげた阿重霞に、魎呼はまたも
爆笑する。
「何でそんなことをおっしゃるんですかっ!」

「正直よねえ、樹雷皇は」
 嬉しげにヒクヒク笑いそうになりつつも、鷲羽が口を挟んだ。
「ウチの娘はちゃーんと自制心ってものを持ってるわよ。ま、
だいたいの場合は、だけどね」

 樹雷皇はハッとして、鷲羽の顔を見ると、その目がだんだん
と丸くなった。
「…鷲羽ちゃんか!本当に同一人物だったのか!」

「あったりまえでしょ」
 ピンクの髪の女王の声から笑いが消え、昔なじみのほのぼの
とした暖かさに満ちた。
 前に進み出て、鷲羽はその小さな両手で樹雷皇の大きな片手
を握った。
「久しぶりね、阿主沙ちゃん」

「鷲羽ちゃん、何年ぶりになるかのう…」
 声を途切らせ、遠くを見るような目の樹雷皇が破顔一笑した。

「だいたい、2400年ぶりよ」
 そう言った鷲羽の口元から笑いがこぼれた。

 目を丸くした船穂と美砂樹が同時に叫んだ。
「あなたっ!」
 驚きの声で船穂が言った。
「貴方が鷲羽さまとお知り合いだったなんておっしゃらなかっ
たわ」

「確信がなかったのだよ」
 樹雷皇は笑った。
「ま、積もる話はまたあとでな!」

 小さな金光の女王から目を転じ、樹雷皇は足元から砂沙美を
抱き上げた。
「おお、儂のかわいいおチビさんが戻ってきてくれたか!すこ
し大きくなったみたいだな!もうこれ以上大きくならなくても
いいと言っておるのに、困ったものだ!」

「うふ、お父さま!」
 笑いながら砂沙美がもじもじするのを、樹雷皇は持ち上げて
肩車する。
「ねえ、あたし『ネコウサギ』をもらったんだよ!見て!」
 幼い皇女は興奮気味に魎皇鬼を抱えて父の顔の前に見せると、
ネコウサギは目をパチクリさせてヒゲもじゃの樹雷皇をポカン
と見つめた。

「ネコウサギじゃと?」
 ぎょっとした樹雷皇は顔に驚きと狼狽の入り混じった表情だ
ったが、魎皇鬼がぺろっと鼻を舐めると奇妙にクシャクシャな
表情に変わった。
「…なるほど」

 一同の背後で、清音がいつもの質素な白い着物の袖に両手を
入れたまま、近衛兵に近づいた。
 その樹雷の近衛兵が少し移動したのを巫薙は目撃した。…敬
礼とか注目といった明かな証左は無かったが、誰が大きな影響
力を持っているのかはすぐにわかった。

「情報ネットをここにつなげて」
 囁く清音の声はほとんど聞こえないくらいだったが、近くで
まだ挨拶を交わし合っている両家に気づかれないようにするた
めだろう。
「公式でも非公式でも、どんな情報でも入手したら全部鷲羽さ
まに確認させるようにして。プロフィールは最低限に。ただ、
惑星パトロールを増員してちょうだい。船の数は増やさないで…
構成艦艇のうち何隻かを高性能のものに変更するの。公式には
ただの定期ローテーションということで」

「承知しました、清音どの」
 近衛兵の一人がそう言って微かに頷いた。
 近衛兵は清音を下の名前で呼びはしたが、そこにはやはり無
言の階級差があったようだ。微妙に、隊列の後ろにいた二人の
近衛兵が、誰にも気づかれないようにさりげなくその場を離れ
て行った。

 巫薙が何気なく清音の腕に触れてこっちに気を向かせた。
「ねえ、忙しくなかったら、私たちの住みかがどんなものか、
見せてくれない?」

 清音はしばらくオレンジの髪の女衛士を見つめ、なぜこんな
事を言い出してきたのか量っていたようだったが、やがて頷い
た。
「いいわ…こっちよ」

 金光の衛士は廊下を歩いていく清音の後をついていきながら、
肩越しにちらっと視線をむけると、美星がいつの間にか皇家の
人々が集まっている近くに移動して、その場を離れていく相棒
の穴を埋めていた。ちゃんと見ていなければ、巫薙自身もおそ
らく気づかなかっただろう。

 巫薙は苦笑した。
「恐れ入っちゃうわ。うちの衛士団なんか足元にも及ばないわ
ね。でもまあ、あそこまでは不必要かな…魎呼に向かってあん
まり気を使いすぎたら、ヒステリーおこしちゃうもの」

 そう思うと、巫薙の笑みも凍ってしまった。
 巫薙は長いこと魎呼と愛人関係にあった。それが阿重霞が来
てから巫薙はたちまち悪臭ゴミのようにポイ捨てされてしまっ
た…可能な限り控えめにではあったが。
 不満に思って口を尖らせた巫薙は、当てつけるように清音に
近づいた。だがその意思表示は誰にも伝わらなかった。
 二人が一緒に歩いていく廊下には、人っ子一人いなかった。

「こんなふうにしてる理由は何なの?」
 視線を向けず、口調も変えず、清音が静かに言った。

「こんなふうって?」

「まるでお気に入りのおもちゃを誰かに盗られちゃった子供み
たい。私はおもちゃにされるのはいやよ」

「何よ、私に近寄ってほしくないってこと?」
 理屈っぽく言われるとは思っていなかった巫薙だが、そう言
われた以上、歯がみしてこれ以上何も言えなくなった。

「あんまり独占欲を露わにして欲しくないってことよ」
 相変わらず淡々と、振り向きもせず、清音が言った。

「私のことが恥ずかしいってはっきり言えばいいじゃないの!」
 くだらないことと言わんばかりに清音が一瞥もくれないこと
へいらだち始めながら、巫薙は噛みつくように言った。

 溜息をついて立ち止まった清音が振り向いて、気が抜けたよ
うに巫薙を見つめた。
「近くの通信施設に行って、この皇宮いっぱいに私たちの性的
関係の事実を公表でもしたいの?それで貴女のエゴが満たされ、
傷ついた心が癒されるんなら、私はかまわないわよ。貴女と私
が閉じた扉の向こうで何をしてるかあっという間に噂で広まる
ことが、築きつつあるって思ってる私たちの関係に有益だって
言うなら、私だって考え直させてもらうわよ」

「ああ、もう、それだけは…考え直すだなんて…」
 そう呟いた巫薙が顔に手を当てた。
「ねえ、許して、お願い、ごめんなさい」
 心の底から後悔した口調で、巫薙が溜息を吐いた。
「私…辛かったの…清音がぜんぜんこっちを見てもくれなくて、
私…」

 清音の態度がちょっと和らいだ。
「…ごめんね」
 少しあたりをうかがってから、清音は巫薙に近づくとその手
をとって指を絡ませた。
「巫薙を避けてたわけじゃないの。ただ、私って…感情を外に
出さないんで…」
 深く息を吸う清音。
「ただ、群衆の多さに巫薙が動転してたのには気づいてたんだ
から、私もっと気を配るべきだったわ」

「ま、私たち二人とも完璧じゃないってことよね」
 そう呟くと巫薙は恋人に優しく微笑みかけた。
 清音の腕を頼っている理由にもかかわらず、巫薙には謝る気
はなかった。
 …この樹雷の女性は魎呼とは似ても似つかないけど、彼女な
りの魅力がある…理解するのも、スムーズにつきあっていくの
もめちゃめちゃ大変だけど…。

「つまんない言い争いはもう忘れましょ、ね?」

「いいわ」
 納得した清音はまた向こうを向いて先を歩き出した。

 二人は、巫薙が今まで見たこともないほど幅広の、銀色の円
柱に近づいた。清音が真っ直ぐ歩み寄り、ちょっと見つめてい
ると、それまで目に見えなかったドアが開き、二人が立ってい
る廊下と同じカーペットを敷き詰めた差し渡し15フィートも
ある室内が現れた。目を白黒させた巫薙だが、清音の後につい
て入っていった。

「この移動システムは皇宮をくまなくカバーしているの。歩い
て回るには皇宮は大きすぎるし、リニアトレインが回廊に沿っ
て走ってはいるけど、不便だから」
 樹雷の美女がそう説明するうちに扉が閉じた。
「行きたいところを言えば、そこに一番近い出入り口に運んで
くれるわ」
 清音が顔を少し上げる。
「金光の皆さんの迎賓エリアにお願い」

「もう私たちもシステムの一部になっちゃってるってわけね」
 おかしそうに巫薙が言って、待ちながら咳払いした。
「で、いつになったら動き出すの?」

 清音がちょっと苦笑した。
「もう動いてるわ、見て」

 巫薙が足元を見やると、困惑した声をあげた。
「カーペットの色が変化してきてるわ!」

「皇宮は場所によってカーペットの色や模様が異なっているの。
目的地に近づくにつれて色と模様がそれに変化していくのよ。
リフト自体は移動を感じさせないように動いているんで…」
 その言葉の途中で、カーペットが海霧の柄になって扉がまた
開いたので、清音が出るように促した。
「カーペットの色が変化し終わるのにどれぐらいかかった?」

「1分かそこらだったわ」
 肩越しに巫薙が後ろを見ると、リフトの扉が閉じていた。
「さっきの着陸台からそんなに離れてないわよね?」

「垂直に何層か抜けた上に水平移動が加わって、他のリフトを1、
2回は避けたりしたから」
 一瞬言葉を句切って、清音が答えた。
「大まかに見て、154マイルってところね」

 驚きの口笛を漏らす巫薙。
「すごいスピード、それに何の加速の振動すら無かったわ。ふ
ええ。乗り込む時に扉が開くのは?」

「網膜走査と容貌認識よ」
 巨大なアーチ型の扉の前で、清音が立ち止まった。
「網膜は常にスキャンされていて、その上でコンピュータがラ
ンダムに顔の特徴を選んでスキャンしてるわ」

「それじゃ、誰かがシステムをごまかそうとしても」
 清音に追いついた巫薙が笑う。
「顔を変装するだけじゃダメで、網膜パターンまで完璧にコピ
ーしなきゃならないってことね」

「そういうこと」
 樹雷の美女がドアに向かい、手で押し開けると、扉がドラマ
チックにギギーっと開いた。

 中を案内する清音。
「ここがリビング。浴室はその扉の向こう。反対側が寝室。あ
の扉は侍女の部屋につながっていて、そこは個別に設備がある
わ。貴女と成羽さんが同室になるでしょうからね」
 そう言った言葉に微かに張りつめるような響きがあったが、
巫薙がそれに気づくほどの恋人になっていたとしても、清音は
顔に出したりはしなかった。
「この周囲には利便と娯楽スペース。…図書室に、コンピュー
タルーム、ゲームに、エクササイズ。すぐそばにあるから、自
分で確認して鷲羽さまや魎呼さまにお教えしてね」

「あとで成羽にチェックしてもらうわ。私より成羽の方がそう
いうの得意だから」
 長いこと豪華な室内を見回していた巫薙だったが、やがてニ
ヤリと笑って清音に近づくと、後ろから緑の黒髪の美女の肩に
両腕を回した。
「ねえ、わかるでしょ…今は私たち二人っきり、みんなはおそ
らくあと1、2時間は向こうにいるわ…。そこの寝椅子はとっ
ても寝心地良さそう…」

「だーめ」
 きっばり拒絶したが、その声にはとげが無く、楽しげですら
あった。
「これから阿重霞さまのところに戻らなきゃならないの」
 一息置いて、清音は巫薙に顔を向けて、頬に手を当てた。
「また二人っきりになれる時間はあるから、ね、心配しないで」

「もう、約束ったら約束よ」
 唇を尖らせた巫薙だったが、ニッコリ笑って清音に軽くキス
をした。
「じゃあ行って。私は成羽抜きで部屋のチェックをしてるから」

「またあとでね」
 巫薙から離れて微笑みを投げ、清音は来た道を戻っていった。
 だが、リフトの扉が閉まると、その顔からは笑みが消え、わ
ずかに寂しげな色が目に浮かび眉間に微かな皺を寄せた。
『私、何をしてるのかしら。私、巫薙にどうしたらいいんだろ
う…』

***

「…ここが銀河最大の、グラヴィティ・チェイスのアリーナだ!」
 そう言って樹雷皇が手を振ったのは、一行が立っている通路
の下にある白い長方形の場所だった。そこは競技場の上に浮い
てゆっくりと動いている巨大なプラットホームだった。

 一行はさっきより数が減っていた。船穂は侍医団の検診を受
けに行っていたし、砂沙美も疲れたということで中座していて、
それに美星が付き添っていた。入れ違いに戻ってきた清音は物
音一つ立てなかったので、魎呼もいつ入れ替わったのか気づか
なかった。

「今年の皇家専属チームの成績はどうだったの、阿主沙ちゃん」
 皇の顔色を逆撫でするように、鷲羽が薄笑いを浮かべて訊い
た。

「…ひどかった」
 髯を手で撫でながら、樹雷皇はぶつぶつと返事した。
「チームに活を入れるために、キャプテンを死刑にしようかと
思ったわい」

「お父さまったら!」
 あきれた表情で父に向かって阿重霞が叫んだ。

「ただの冗談じゃよ」
 樹雷皇は慌てて大笑いしてごまかし、娘の肩に手を置いた。
「あの『黒尾(くろお)』がお前のごひいきであることぐらい
知っておるからな」

「ん?」
 ほんの少し目をつり上げた魎呼がいきなり口を開いた。
「黒尾って何者?」

「わがグラヴィティ・チェイスチームのキャプテンですわ。文
明人なら知らない者などいませんわよ」
 気取った笑いを浮かべ、手を胸に当てて阿重霞が答えた。
「最高のアスリートで、いつもゴールを私に捧げてくださるの
よ」

「へえ、そう?」
 腕組みしてそっぽを向く魎呼。

「あら、妬いてらっしゃるの?」
 ニヤニヤ笑って魎呼に詰め寄り、阿重霞が肘でつつく。

「へっ!」
 金光の王女はその一声に軽蔑と嘲笑をこめてにらみ返した。
「そんなのに熱を上げてるお前にうんざりなだけさ!両手両足
をがんじがらめにされた女々しくて軟弱で甘やかされて皇家の
ペットになったグラヴィティ・チェイスの選手なんか、目じゃ
ないね!」

「貴女の勝手な大ボラを公然と言いふらさない方がよくてよ!」

「何だとぉ!」

 咳払いした鷲羽が、話が脱線する前に口げんかの矛先を変え
ようと口を挟んだ。
「阿主沙ちゃん、このアリーナはあたしがいた頃からはずいぶ
ん改修や補修をされてるみたいだけど、何か新しいところは…?」

「おお、もちろんだ、その質問を待っていたぞ!こっちじゃ!」
 樹雷皇は大股で通路を歩み出し、一行を大型リフトに先導し
た。近衛兵の一人が、その主が何も言わなくてもどこに行きた
いかわかるらしく、リモコンのスイッチを押した。
「ところで鷲羽も知っていようが、ここには時折、他の次元宇
宙から迷い込んできた人々がやってくる」

「知ってるわ」
 ピンクの髪の女王が承知とばかり頷く。
 リフトが開くと、樹雷皇がまた話しだし、鷲羽もその横に立
って話し出す。
「この空間近辺の次元障壁はやや薄くなっているからね。ある
宇宙船がいきなりスターティカ(星祭り)のまっただ中に突っ
こんできたことがあったじゃないの。あれは全く、とんでもな
い騒ぎだったわね」

「その通りだ」
 その時の記憶に眉をひそめて、樹雷皇が同意した。
「で、最近次元を越えてやって来た者が、我らの聞いたことの
ないスポーツの選手だったのだよ。それが実におもしろいもの
でな。当然、我々は詳しく聞きたがったし、その者も熱心に説
明した。そのスポーツをここでまたできるかもしれないと思っ
たらしくてな」

「熱心ねえ」
 鷲羽が何気なく答えた時、目の前の扉が開き、一行は桟敷席
のバルコニーに向かった。ロイヤルボックスにふさわしいふか
ふかで豪奢なデザインの座席が数席設置されている。

 一行の眼前には別のドーム型のエリアがあり、船が一隻着陸
できるほどの広さだった。その中央には盛り上がったサークル
があるが、比較するものが無いのでどれほどの大きさかはよく
わからない。
 その両脇は垂直な短い断面になっていて、サークルの中央か
らは薄い金属製の白いアーチが高く上にそびえ立っている。そ
のアーチの中間には二つの輪が下がっており、一つはもう片方
よりやや小さく同心円状になっており、共に高度な科学技術を
用いているように見えた。

「なんだい、これ?」
 頭を掻きながら魎呼が言った。

「これが新設備の『ブリッツボール』のアリーナじゃ!」
 誇らしげに顔を上げて、樹雷皇が絶叫せんばかりに言った。

「へえ、で、あれが何だって?」
 金光の王女がさらに疑わしそうだったので、全然感心してく
れない魎呼に樹雷皇は少々しぼんでしまった。
「グラヴィティ・チェイスみたいなもの?」

「と〜んでもない!」
 興奮した顔で美砂樹が口を挟んできた。
「ちょっとは似てるけど、ぜ〜んぜん違うわ!これはね、水中
のゲームなの!」

「水中で?」
 ハッとした魎呼が、驚いた顔を成羽に向けたが、一瞬目を丸
くした成羽はすぐに肩をすくめた。
 皇妃に視線を戻して、魎呼が肘でつつく。
「で、水中のゲームで、それから?」

「チームは二つで、ゴールは二つで、ボールは一つで、各チー
ムは六人!」
 その場でぴょんぴょん跳ねるように説明する美砂樹。
「元々は選手は長く息を止めなきゃならなくって、5分1ピリ
オドで一試合2ピリオドだったんだけど、ここでは選手がブレ
スギアを装備して試合時間を伸ばして、もっと面白い試合にな
るようになってるの!」

「ふううん」
 魎呼はバルコニーの端に近づいて、無人のアリーナを見下ろ
した。
 成羽もその後についていって傍に立った。
 やがて魎呼の口に微笑が浮かび、傍らの衛士をちょんと肘で
つついた。
「いっちょ、暴れるか?」

「御意」
 成羽も微笑を浮かべて同意する。

「よくもまあ大きな口を叩くものですわね」
 阿重霞が疑わしげに魎呼を睨みながら憤然とした。

 振り向いた魎呼が欄干に寄りかかってニヤリと笑う。
「お前に何がわかるって言うんだよ」

 気色ばんだ阿重霞が言い返そうと口を開いたが、鷲羽がそれ
を押しとどめる。
「うちの娘が言いたいのは」
 鷲羽が言う。
「金光人はかなりの真空中でも活動可能ってことよ」

 その言葉に樹雷の人々は目を丸くした。
「何ですって?それじゃ、宇宙空間でも生きていけるってこと?」
 目を見開いて、信じられないというより衝撃すら受けた口調
で、阿重霞が言った。

「ああ、そういうことさ、お嬢ちゃん」
 バカにするように手を振って魎呼がまた言った。
「平均で5時間以上は平気さ。アタシなら6時間いくけど」
 またニヤリと笑って魎呼は親指を立てた。
「この成羽なら、8時間はいくぜ」

「でも、たいしたことではありません」
 黒髪の女衛士は無表情に言い添えた。
「無重力下では筋肉が異なった反応を起こし、真空中でも肺が
ため込んだ空気を処理して酸素を少しずつ供給するように脳が
構成されているのです」

 笑ったまま魎呼が引き継ぐ。
「それに、アタシたちの目には特殊な第二のまぶたがあってね、
真空中でも目を護るのさ。水中だってアタシたちにはへでもな
いね」

「なるほど、それは面白いアイデアだっ!」
 いきなりそう言った樹雷皇に、魎呼も成羽も、そして同じよ
うに阿重霞もびっくりした。
「すでに樹雷人のチームがいくつか、それに異星人のチームも
作られているが、金光人のチームができればきっと面白くなる
だろうなっ!」

「え?マジ?」
 目をパチクリさせた魎呼が、また成羽と顔を見合わせた。
 しばらくしてまたニヤリと笑った魎呼が、欄干から身を起こ
した。
「そうなんだ、じゃ、アタシがここにいる間は誰を連れてきた
ってムダだぜ。どんなスポーツだろうとかかってきやがれ、さ!」
 すたすたと阿重霞に近づいて目を覗き込み、イタズラっぽく
笑う魎呼。
「きっとお前のお気に入りの黒尾とかも、アタシに負けておて
んば姫からビンタの祝福をうける栄誉が欲しくて、ぴちゃぴち
ゃ水に入ると思うぜ、ん?」

「黒尾さまは必ず挑戦を受けるに決まってますわ!」
 歯がみして応えながら、阿重霞は婚約者を睨みつけた。

「みんなの言う通りねぇ。ほんとにスポーツってみんなを一つ
に結びつけるものなのね」
 能天気に美砂樹が言った。

***

 こそこそと曲がり角をうかがいながら、砂沙美は「ここに入
ってはいけません」と言う大人の姿がないかどうか確認してい
た。この通路では今までそんなことはなかったものの、あり得
ないとは言えない。細心の注意を払い、物音を立てず、誰かに
自分の「秘密の場所」を見つけられて台無しにされないように
しなくてはならない。大事をとって魎皇鬼さえも自分の部屋に
残し、美星をまいてきたのだ。…もっともそれは大して難しく
はなかったが。
 人目がないのを見て、砂沙美はパタパタと角を曲がり、廊下
の突き当たりにある大きな金属製の二重スライド扉にたどりつ
いた。そこにきをつけすると、扉のアーチの上にある小さな半
球から緑色の光線が発射され、砂沙美の身体をてっぺんからつ
ま先まで照らした。
 光線が消えると、扉はガタンと音を立て、ゆっくりと左右に
開き始めた。いつものようにホッとして、扉が急に開かなくな
るかもしれないと思う理由もないのだが、砂沙美が大急ぎで扉
を抜けると、扉もやはり全開になった。

 新鮮な空気と大地の匂いが砂沙美の五感を満たす。砂沙美は
ニッコリと笑って広大な円形の室内を見回した。目の届かない
ところまで背を伸ばし、できるだけ遠くまで。
 巨大な木々が台座の上の地面から生えていて、その台座のい
くつかは完全に宙に浮いているように見えているが、またいく
つかの台座は長く細い支持棒で室内の完璧に滑らかな壁に固定
されていた。

 金光人の星を訪問したことは楽しい経験ではあったが、やは
り砂沙美には故郷に戻り、そして自分だけの「秘密の場所」に
帰って来られたのが嬉しかった。
 満面の笑みを浮かべ、砂沙美は真っ直ぐ駆けていき、部屋の
端にまで行くと、手すりの壊れたバルコニーと開け放たれた扉
を抜けて、飛び降りてしまった。

***

 成羽は金光人一行に用意された迎賓エリアを見て回って、大
きく伸びをした。疲れてはいたが、寝るにはどうにも落ち着か
なかった。何かしようと思うが、のんびり腰を落ち着けるのも、
本を読んだりゲームで遊ぶのも性に合わないし、エクササイズ
も今は気が乗らない。

 やらなきゃならないことは特にない。…そうだ、訊きたいこ
とがあったんだ、できるなら会いに行かないと。

 リフトのところに戻って、成羽は扉に顔を向けると、ちょっ
と間をとった。
「…美星のいるところまで連れて行ってくれないか?」

「皇家つき侍女・美星さまのいらっしゃる場所には、このユニ
ットでは行けません」
 滑らかで賢そうな、コンピュータの合成とは思えないほど完
璧な男性の声で答えが返ってきた。

「そうか」
 呟いた成羽はちょっと考えて、もう一度訊いた。
「砂沙美さまは?」

「砂沙美皇女は中央の『皇家の森』に」
 コンピュータが応えた。そしてほぼ同時に足元のカーペット
が徐々に消えたと思うや、成羽はリフトの中に吸い込まれて皇
宮の中心部に運ばれていった。

***

 嬉しそうに笑いながら、砂沙美はゆっくりと降下していた。
手足を伸ばし、二本のポニーテールを軽やかになびかせて。
 浮遊している様々な大きさや形の木々が、砂沙美の落下と共
に通り過ぎていく。小さな皇女が身体を片方に傾けると、ゆっ
くり螺旋を描いて回転し、部屋の四方を隅々まで見渡しながら、
木々の枝に何度も触れそうになる。

 すごおく、静かだなあ…。
 そう思いつつ、砂沙美の耳には心の奥底に囁きかける音楽の
ようなものが聞こえていた。スローで優しい歌声は、ずっと、
ずっと続いていて、終わることもなく、そして近づいてくるよ
うにも聞こえなかった。

 また姿勢を傾け、今度はまっすぐ立つようになると、足を下
に向けたことで砂沙美の服がはためいた。
 柔らかくサクッと音がして、皇女は柔らかな芝の斜面に着地
した。
 砂沙美は坂道を駆け上がり、丘の中央に立つ凄まじいほどに
巨大な大樹に向かっていった。

「津名魅ぃぃぃっ!!」
 木の周りをぐるっと駆けめぐりながら、砂沙美が叫んだ。

 まばたきする砂沙美。
 どこにいるの?
「津名魅?」
 砂沙美はもう一度、今度はゆっくり木の周りを回り、そして
立ち止まると幹を覗き込むと、両手で木の肌に触れる。
「つ、な、み?」

 その時、砂沙美の肩に触れる手の感触。
 歓声をあげて砂沙美は振り向くと、迎えてくれる二つの腕の
中に飛び込んでいった。
「津名魅っ!」

***

 リフトを出た成羽は、あたりを見渡してから、短い廊下を歩
き出した。廊下は平坦で、別のもっとずっと大きな通路に繋が
っていて、こちらは天井が高く、四角いアーチが飛び飛びにず
っと延びており、突き当たりには金属製の合わせ扉が見えた。
他に出入り口はなく、何の装飾もなかった。
 そしてそこは異様なほどに静まりかえっていた。

「ふうん」
 金光の女衛士はゆっくり進んでいき、ドアの前に着くと小手
をはめたままの拳でノックした。
「もしもし…?」

「はあいっ!」
 いきなり真後ろから陽気な叫び声が響いた。

「うわあっ!」
 ドキッとして振り向いた成羽は、美星のニコニコ笑顔と真正
面で向き合うことになった。
「…どこから!?」

「え…」
 小麦色の肌のブロンド美女は頬に指を当てて思案顔。
「ええとお、わたしってば産まれてすぐに皇宮の孤児院に捨て
られていたんで、正確にはわからないんですが、パパとママは
いたはずなんで、たぶん…」

「出身地じゃなくて!」
 眉間を指でつまんで片手で「ストップ」と合図した成羽が遮
る。
「もういい、忘れて」

「わかりましたぁ!」
 陽気に美星が返事してから、不思議そうに目をパチクリさせ
た。
「で、何を忘れるんですか?」

「…もういいってば」
 正直、成羽には怒っていいのか笑っていいのかわからなかっ
たが、それでも思わず苦笑が漏れていた。
「ちょうど美星を探していた。どこかにのんびりできる場所は
ないかと思って」

「そうですねえ、お買い物とか!」
 目をキラキラさせた美星が即座に言った。

「私の趣味じゃないな。…船にあったような庭園みたいな場所
はないか?」

「あ、いっぱいありますよ」
 美星がまた頷いた。
「リフトに言えば、植物エリアに連れて行ってくれますぅ」

「へえ、そいつはいい。ありがとう」
 成羽はさっそく歩き出したが、ふと立ち止まって肩越しに振
り返った。
「そこには獣とかなんとかいないんだろうな?いきなりカカト
を噛まれたりしないな」
 肉食動物を従えた変人の金持ちに追跡される森の中の映像が、
頭の片隅をかすめた。

「ええっとお、噛まれたいなら動物保護区に行かないと無理で
すよ〜」
 ブロンドの美女はあっけらかんと答える。

「そいつはパスする」
 やはり苦笑したまま金光の美女は呟いた。
「ありがとう、美星」

「どういたしまして!」

 元の道を通って成羽はリフトに戻り、中に入った。
「植物エリアに」
 ふと思いついて、付け加えた。
「ジャングルみたいになっているところがあれば、そこに」

 カーペットの色が消え、徐々に深緑色に色に変わり、そして
扉が開いた。
 成羽は一気にジャングルの感覚と匂いに打ちのめされた。船
の庭園よりもずっと温かく湿った空気、上品に手入れされた草
木よりもずっとむせかえるほどに濃密な匂い。
 大きく深呼吸して、金光の女衛士はリフトから踏み出し、周
りを見回した。そこは本当にジャングルに踏み込んだかのよう
で、木々に蔦が勝手に絡み、鬱蒼と草が生えてあちこち薮と一
体化していた。
 リフトからはとりあえず一本だけ道が刈り込まれていて、そ
の他は全くの自然のままである。明らかにそこには生き物の痕
跡があるが、それは幸い湿った空気に乗って聞こえてくる鳥の
声にかき消されていた。

 ここしばらくの成羽にしては軽い足どりで進んでいき、すぐ
に道を外れて木々の間を抜けて「野生」の中に入っていった。
数分ほど歩くと、幅15フィートほどある川の岸に出た。かな
り深そうで、何カ所かから岩が突き出ている。
 自分があの小道からどれだけ歩いてきたかを考えてみて、こ
こなら失礼な誰かに覗かれることはなさそうと成羽は判断した。
 成羽は小手を外して苔むした川岸に置き、同じようにブーツ
を脱ぎ、胸当ての留め金をすばやく外して他の物と並べ、それ
から腰布を脱いだ。
 全裸になって、足を踏み出し、成羽は水中に飛び込んだ。

 水は自然な程度にぬるんでいて、生ぬるい空気よりは冷たか
ったので、暖かさと冷たさを同時に味わうことができた。川の
水もなにか、スイミングプールやただの池の水よりも厚みがあ
る感じで、ただ浮かんでいるだけと言うよりも前の方に立ちふ
さがっている手応えがあった。

 成羽は全身をくねらせて機敏に水を捉え、身体に両手をピッ
タリ合わせて、両足を揃えて水を蹴り、数フィート潜ってから
身を起こして水面に出て、大きく息を吸った。飛び込む前に
「呼吸モードの切り替え」をしていなかったからである。
 浮力を使って身体をひねって仰向けになり、手足を思い切り
広げて浮かぶと、成羽の周りに穏やかな波紋がゆっくりと広が
った。

『ずいぶん…久しぶりだ』
 顔に張り付いた黒髪の隙間から模倣された青空を仰ぎながら、
成羽は思った。
 水中で身動きすると、ちょっと動いただけで巨乳の動きが水
面に直接伝わり、美しく鍛えられた腹筋の上を軽やかな波が洗
っていった。
『こんなふうに水の中に浸るのは、久しぶりだ』

 成羽は金光本星から恒星系二つ離れた植民惑星の熱帯で生ま
れた。広大で蔦が這いずる、絵に描いたようなジャングルで成
長し、そこで生きていた頃は毎日が世界との戦いであり、歯を
むき出して拳を構える戦いだった。本気でジャングルを自分の
ものにするのは、ジャングルも常に本気でこちらを呑みこもう
としているからであり、そういうものとして応じるからだ。
 成羽は自分の家を通り抜けるのと同じくらい堂々と肉食動物
の水飲み場で遊ぶことができるくらいの、勇者の一人だった。
もっとも元来、成羽の一族は水上生活を営んでおり、川を泳い
で魚を狩り、危険もものともしない人々で、死を怖れるような
遺伝子そのものが無いんじゃないかと囁かれるほどに衆目を集
めていた。

 地球人が邪悪な目的と共にガンメタル・グレイの宇宙船でそ
の星に襲来したとき、成羽は不在だった。成羽の母星が一族も
ろとも滅んだとき、実は成羽は魎呼や巫薙と一緒に生活してい
たのだった。子供時代を過ごしたあの、川に縁取られたジャン
グルは、今や平坦で悪臭を放つ泥沼となり、水と空気もまた、
放射能の中でメタンガスを発生する藻類以外の生き物には致命
的な毒性を帯びてしまった。
 それが一世紀を越えるほどに長引いた戦争の始まりであり、
何千、何万、何億もの死者を両軍にもたらした。地球帝国は金
光人を支配下に置くか、さもなくば絶滅を狙っていた。金光人
は後者をより強く地球人に対してもたらしてやろうと考えた。
 最初の不安定な数週間から数ヶ月、金光人は自分たちが戦っ
ている相手が一体何者なのか、なぜ戦っているのかわからずに
いた。わかったのはいくつかの宇宙船や艦長の奇妙な名前、そ
して地球人が宇宙征服を進めていることと関係がありそうな紋
章程度だけ。

 戦争が進む中、鷲羽が金光人の指導者になり、そして成羽の
故郷を攻め滅ぼした船の艦長が地球の皇帝になった。戦争が真
にスタートしたのは、地球艦隊が金光の本星に来襲し、それを
鷲羽と魎呼がネコウサギの少数部隊で迎え撃ったときだ、と多
くの者は言う。
 次の一世紀で、地球人は占領した金光の領域から追い出され、
自国の領域に、さらに本星にまで押し戻された。そして、領域
封鎖が長年に渡って続き、動力エネルギー抑制サテライトネッ
トが働いて、地球人の脅威はスイッチ一つで無力化された。鷲
羽の言葉によれば、これで平和なときが訪れ、そして地球人は
金光人によって破壊と無縁な道に戻ることとなったのだ。

 知る者はほとんど無いが、平和が訪れた最初の日の夜、成羽
は地球に降り、地球人が「インディアナ」と呼ぶ不毛の地に立
った。そこで成羽は、老醜の地球皇帝を素手で八つ裂きにして、
復讐をなしたのだった。

 成羽は目を閉じた。
 自分がどうやって地球の王宮から戻ってきたのか全く記憶が
なかったが、後からの報告では、王宮の生きとし生けるもの全
てが、まるで巨大な野獣が暴れたかのようにズタズタに虐殺さ
れていたのが見つかったということだった。
「憎むべき事件だがおそらくは不可避だった、戦時において発
生した反動的事件」というのが公式の見解だった。
 尊敬し愛していた両親、いじめっ子だったが優しかった姉、
そして生まれたばかりだった赤ん坊の姪のために敵を討ったこ
と、その行為が「憎むべき事件」なのかどうか、成羽には今ま
でずっと判断できずにいた。

 そして今、成羽は今度は英田を失った。
 溜息をついて、成羽は水中で身をくねらせて再び潜ると、目
を閉じて重い記憶を水の流れに押し流そうとした。
 一人っきりになりたいと思う気持ちの一方で、成羽には望む
べくもないほどの最高の親友が二人おり、大いに敬愛する女性
のために身を捧げるほどの職務があり…。

 …でも、自分の足元がよく見えない…。
 どちらかと言えば、今回失ったものにもかかわらず、以前よ
りずっと自分を取り巻く状況は良くなっているのに。
 でも、どうしてこんなに心が誰かのために救われてるという
より、水中深くに沈んでいくような気分なんだろう…?

***

「…でね、あたしは二人ともとってもお似合いだと思んだけど」
 考え込みながら話し続ける砂沙美は、古代風に盛装した美女
の膝の上に抱かれて、その胸一杯にもたれかかっていた。少し
くしゃくしゃになった砂沙美の袴と裾長の上着が、数千年も昔
の樹雷の着物と一つになって、二人独自で普遍的なスタイルを
見せていた。
「でも、二人はそう思ってないの」

「そういうことは今に始まったことではないわ、幼な児よ」
 津名魅の柔らかくリリカルな声が、優しい囁きになって響き、
具象化した精霊は顔を寄せて砂沙美の耳元にまるでエーテルの
ような口づけをした。その声は完璧なほどに重層的で、隅々ま
で精緻に筋のように彫刻された優雅な水晶の指輪のようだった。
その声と共に、まるで終わりのない幻の風のように、長く青い
ポニーテイルが背中に揺れ、着物の折り目が静かに衣擦れの音
をたてた。そしてこの世のものとは思えないその姿も動作も、
人間を超越した美しさと優雅さに満ちていた。

 しかし、その膝の上に抱かれて小一時間もずっと切れ間無く、
まるで同い年の仲良しの友だち相手のようにおしゃべりし続け
ている少女には、全く気にならないようだった。

「じゃあ、あたしはどうしたらいいと思う?」
 ちょっと悲しげに小首を傾げて、砂沙美は樹木の精霊を見上
げて尋ねた。

「今までそういうのをたくさん見てきたわ、皇女よ」
 津名魅は同じように優しく穏やかに囁いたが、明るいピンク
の瞳が柔らかく楽しげな眼差しになった。
「でも私自身もロマンティックな愛を経験しましたけれど、そ
れは人それぞれに違うものだと思いますよ。あの二人も、生き
ていた頃からすでに他の樹雷人たちとはずいぶん変わっていま
したから」

「津名魅もその二人が好きだった?」
 ちょっと津名魅に顔を近づけて、砂沙美は津名魅の肩に顔を
寄せると目を閉じた。

「あなたが想像もできないほどに、私はあの娘を愛していまし
たよ。いとしい娘よ」
 そう答えた津名魅は目を伏せ、その瞳に悲しさをよぎらせた。
「あの娘の存在、あの娘の姿、あの娘の声、あの娘の手の温も
り。あの娘への想いは私の中で疼きとなり、年を重ねるごとに
私の枝が陽に向かって伸びていくよりずっと大きくなっていき
ました」
 言葉を切って、そして津名魅はそっと両腕を小さな皇女に回
して抱きしめた。
「でもやっと、二年前にその疼きを和らげることができました」

「死んじゃった人を好きでいることをやめちゃったの…?」
 目を開けた砂沙美が津名魅の顔を見上げる。

「憶えている限りは忘れちゃダメですよ、幼な児よ…。でもい
つの日か、心の痛みがおさまる日が来て、意識しないで生きて
いけるようになるのです。そして、想い出す時、ずっとずっと
好きでいたことを悟るのですよ」

「どれくらい、憶えているの?」
 幼い皇女は津名魅の瞳を覗き込んで、普遍的ではなく自分自
身のこととして問いただした。

「永遠にですよ、砂沙美」
 ほんの少し寂しさの入り混じった微笑みを、津名魅は浮かべ
た。
「皇家の木は、決して忘れたりしません」

「じゃあ…津名魅はその人のことをずっと好きでい続けるの?
ずっと、ずっと?」

「ずっと、ずっとですよ」
 それは決して不幸とばかりは言えないとばかりに、木の精霊
は答えて、目を閉じ少女の額にちょっと鼻を寄せた。

「それじゃ、いつか…あたしのことも好きになってくれる?」
 幼い皇女は、穏やかに訊く。

「きっとあなたのこともずっと好きでいますよ、私の大事な砂
沙美」
 ホッと息をついた津名魅。
「なぜなら私はずっとここにいるのだから。いつか星々が冷え
切って全ての記憶が歴史の彼方に消え去ってしまった時にも、
きっとこう言う私がいるのだから…
『あの娘の名前は砂沙美。私は砂沙美が大好きでした』と」

***

 リフトから出てきた魎呼は、顔に当たる熱い空気の勢いに半
歩後ずさりした。
 小道に踏み込んであたりを見回しながら魎呼は、ジャングル
のど真ん中で盛装姿のままの自分の場違いさを痛感していた。

「あ…成羽?」

「私はここです…、貴女の正面の木の間をまっすぐ2分ほどの
ところです」

 ぶつくさ言いながら、魎呼は手を伸ばしてドレスの裾を掴み、
上にたくし上げてナマ足丸出しにして、薮の中に踏み入った。
どうしたって着替えが必要な灌木やぬかるみを避け、2分と少
しかかって、魎呼はやっと成羽の服が積んである場所にたどり
ついた。
 見つけ出した女衛士は、川の中央の平らな岩の上でうつぶせ
になって組んだ腕にあごを乗せ、下半身を流れに浸し、豊かな
黒髪はかなり水に濡れてべたっと身体に張り付いていた。
 魎呼とそっくりな八重歯を見せてニコッと笑った成羽は、ま
るで狼のような表情だった。

「迷子のお嬢ちゃん、私の巣によく来たね」
 黒髪の美女は、かなりそれっぽい真似をして呻りながら言っ
た。
「ここで一泳ぎして、それから一緒にお茶でも飲まない?」

「人さらいの魔女になってご陽気になってんじゃないって」
 ふんと鼻を鳴らす魎呼。
「いいからもう。ガキのおままごとやってる場合じゃないんだ
よ…。アタシとお姫さまとの公式な婚約を結ぶってんで、つま
んない儀式に出なきゃならないんだと」

「はいはい、わかりました。リフトに戻っていてください、す
ぐ後から行きますから」

 軽く頷いて、魎呼は元来た道を探すようにして戻っていった。
 成羽は岩の上から滑るようにして降り、全身でひとくねりし
て一気に川岸に戻ると、エビぞりになって背伸びし、上半身を
起こした。水辺に手をついてぐっと身を起こすと、成羽の肌や
髪からどっと水しぶきが滴り落ちた。服を置いた場所から少し
離れて、背の高い大柄な美女は両拳を握りしめてわずかに飛行
フィールドを白熱させると、渦巻きのように波動を発して肌の
水気を弾き飛ばした。数秒で力場を弱め、髪を軽く叩いて髪が
乾いていることを確かめると、成羽はたいした量じゃない自分
の服を手にとって、そのまま草木の中を駆けていった。

「やれやれ、モザイクが二、三カ所欲しいところだ」
 追いついた成羽に魎呼がぶつぶつこぼしながら、二人はリフ
トの中に入った。

「首筋がムズムズするな。…もうじきアタシもひとつ必要にな
るからなぁ」

***

 玉座の間は、魎呼が予想したほどたくさんの人はいなかった。
実際には、皇家の私的な侍女たち、近衛兵の代表団、そしても
ちろん皇家一同に、金光王家一行。臣民にはビデオ視聴で、と
いうことだった。
 樹雷王阿主沙、皇妃船穂と美砂樹、皇女砂沙美と、女王鷲羽
が、玉座の間の奥にある壇上に玉座を囲んで並んでいた。一同
と大扉の間には深紅のカーペットが敷かれ、そこに魎呼と阿重
霞が立っていた。中央の両脇には成羽と巫薙が向かい合って立
ち、身じろぎもしない樹雷近衛兵団が二団に分かれて整列して
金光の衛士の後ろに密集隊形で控えている。

 魎呼の阿重霞の背後で大扉が閉まると、二人はゆっくりとウ
ェディングロードを歩き出した。

「ちゃんとやって、済ませちゃうわよ」
 唇をほとんど動かさず、魎呼だけに聞こえる低い声で、阿重
霞が呟く。

「上等だ」
 魎呼も言い返し、二人は無表情に近いこわばった顔で、歩調
を揃えて前に進んでいった。

 魎呼は巫薙の前を通ると、その目に苛立ちを見てとって、少
しでも怒りを解いてほしいと心で伝えた。
 …魎呼自身は無情にも阿重霞を敵に回してしまっていたが、
これは阿重霞のせいではない。

 階の前で二人のプリンセスが立ち止まると、樹雷皇が進み出
た。その表情は硬く、明らかに樹雷皇がこの最愛の長女の婚約
に実は乗り気でないという本音を表さないようにしていた。

「柾木阿重霞樹雷と白眉魎呼との結婚の意思を確認するこの日
をもって、我ら二国は一つとなる!」
 樹雷王は一呼吸置いて軽く咳払いし、さらに言葉を続けた。
「さ、向かい合って手をとりなさい」

 ひどくぎこちなく、魎呼と阿重霞は向かい合うと、魎呼が阿
重霞の片手を両手でとった。樹雷の皇女がもう片方の手をさら
に金光の王女の手の上に置く。
 二人はしばらく茫然として互いの顔を見つめ合った。そして
深紅の瞳が金色の瞳と視線を合わせて一つになると、二人とも
ガチガチになってしまった。

「二人は結婚を前にした今日ここに立った。互いにだけではな
く、民族もまた一つに結びつけるために」

 成羽はふと急に目を丸くして、スピーチから気をそらし、ひ
どく匂いを嗅いだ。以前に嗅いだ匂いなのか確かめようとして。
『もしかして…!』

「この二国の同盟は、新たな時代を導くであろう!」
 スピーチが終わり、魎呼は阿重霞の目を見つめながら、ドキ
ドキして自分の乾いた唇を舐めた。

 何か言わなきゃ、何か…何でもいい、何か、これからの人生
を一緒に生きていくこの少女に。

 魎呼が口を開きかけた…その時。

 大扉がバンッと大きな音を立てて開き、室内の全員の顔が一
斉にその方向に向いた。

 黒いマントに身を包んだ影がさっと室内に駆け込み、明らか
に目的を持って玉座の階に向かって突進してきた。
 樹雷の近衛兵たちがその闖入者に殺到し、巫薙も槍を構えた
が、成羽は肩に手を置いただけだった。
「まずい」
 黒髪の女衛士は溜息混じりに言いながら、首を横に振った。
「最悪なことになるな」

 樹雷の近衛兵が二人、その影の前に制止せんと進み出て、杖
を交差させて行く手を遮った。

 フードの影はちらりと片方を向き、さらに反対を見た。そし
て、手袋をはめた手でフードを引き下ろした。

「何だとぉっ!!」
 絶叫した魎呼があんまり手をきつく握ったので、阿重霞が痛
みに悲鳴をあげた。
「お前がなぜ、ここにっ!?」

 フードを脱いで明紫色の長いギザギザの髪を背中になびかせ、
前髪をバンダナで上げ、何本かのほつれ毛があちこちからはみ
出ている。その暗紅色の瞳は吊り上がって怒りに燃え、顔に差
した赤みが、顔の右側にあごから目の下までカーブした傷跡の
ように彫り込んだ黒いタトゥーを、さらに際だたせた。

「貴様っ!」
 その女…那岐が、阿重霞に向かって指を差して吼えた。
「その汚い樹雷の手を放せっ!…オレの女から!」


つづく


*文中の「ブリッツボール」は、『ファイナルファンタジーX』
 に登場するミニゲームです。

 

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