無題…今は何も考えられないゆえに

 

 ここは静かすぎる。
 目を閉じれば、部屋に向かっていく廊下に響く初美の笑い声
が聞こえてくるのに。
 でも、初美はいない。ここには、誰もいない。
 関西弁で話すおかしなインコもいない。巨大な黒い帽子の変
な女の子もいない。暖かな光でボクを癒してくれる、初美もい
ない。
 外の雨音と、この暗く寂しい家と、ボクだけ。

 おかしいよ、初美がいなくなって、生きていく重荷は軽くな
ったはずなのに。でも、この苦しさは言葉では言い表せない。
ボクの中身は空っぽになってしまった。まるで心臓をもぎ取ら
れて、ボクは麻痺して魂を無くしてしまったみたいだ。今のボ
クなら、周囲の暗闇がいきなりボクを呑み込んでしまったって
驚きやしない。雨に澱んだ空気も、雷鳴も、ボクには同じこと。
何が起こったっておかしくない。
 だって、ボクはいつ逢えるかもわからないまま初美を捜し求
めたんだ。暗闇がボクを地獄の深淵にまで呑み込んだっておか
しくなんかない。でもボクはもう、地獄より最悪なところにた
どり着いてしまった。初美のいない世界なんて、ボクには何の
意味もない、最低の悪夢だ。

 初美…。
 初美無しで生きていくのは苦しいよ。時々、目を閉じて、こ
れが全部夢だったらって願うんだ。固く、目を閉じて、全ては
ボクの心の絵空事だったんだって。目を閉じて、また目を開け
たら…初美が微笑みかけてくれているって信じて。
 ボクは目を開ける。でも、初美はいない。見えるのは、ボク
を取り囲む漆黒の空虚だけ。
 どこに走っていっても、どこまでもこの足で進んでいっても、
初美はどこにもいない。
 ボクに残された初美のよすがは、あまりにもささやかすぎる。
ビデオテープに写真に、初美の櫛、そして初美の部屋。それが
全て。

 待っていてくれれば、また逢えるでしょう…初美はそう言っ
たね。
 もしそうなら、ボクは喜んで待つよ。最悪でも、ボクの子供
になって、って言ったね。でももし初美がボクの子供になった
なら、それは何て苦しい至福だろうか。愛したひとがこんなに
近く、同時にこんなに遠い存在になってしまうことを思い知る
なんて。いつもボクの側に初美がいるのに、ボクのやり方で初
美を愛することが永遠に許されなくなってしまうなんて。
 そう、初美が16歳を迎える日まで。

 神様、ボクは運命に呪われている。麗しい親子愛と同時に、
ボクの涙を絞り尽くす呪われた道を与えてくるなんて。

 だけど、もし初美が本当にボクの子供になっちゃったら、ボ
クは狂ってしまうだろう。狂気の中で死んでしまうだろう。だ
って、ボクが求めていたのは、初美をボクの身体にきつくきつ
く抱きしめて、そっとその顔にキスすることだったんだもの。
もし初美がボクの子供になったら、そんなことできやしない。
心の中に隠した本当の気持ちをさらけ出すことなんかできなく
なる。
 なんて、皮肉なんだろう。
 きっと、今すぐ死んでしまってこの苦痛を逃れてしまった方
が、この手に定められた呪われた運命を思い知ることになるよ
りもずっとマシだ。そんな呪われた幸福に、ほんのわずか残っ
ていた魂を木っ端みじんに打ち砕かれるのを待つなんて。
 神様は、人間の心を弄んで楽しんでるに違いない。そしてこ
の瞬間も、別の人間を破滅させたことを悟って、その様子を笑
って眺めているにちがいないんだ。
 冗談じゃない!バカにするな!
 そんなもの、何だって言うんだ。知ったこっちゃない。
 運命がなんだ。初美とボクを引き離すような世界なんてクソ
くらえだ。
 みんな地獄に堕ちろ!みんな…。

 愛することがこんなに苦しいなんて夢にも思わなかった。
 今じゃ死神が救い主だ。この苦痛を終わらせてくれる救い主
だ。いや、死もこの苦しみを終わらせてくれるんだろうか?
 初美…初美に逢いたいよ!逢いたくて仕方ないよ!ボクの叫
びが聞こえる?ボクの願いが聞こえる?どうして戻ってきてく
れないの?初美がたとえイブであったって関係ない!そうさ、
初美がジルであったって、何だってかまわない。神だろうと、
聖母マリアだろうと、マザーテレサであろうと!
 ボクにとっては、初美が初美なんだ。
 ボクが小さかった頃から知ってる初美、辛い時にもボクに微
笑みかけてくれた初美。ボクを抱きしめてそっと手を撫でてく
れた初美。ボクの涙をぬぐってくれた初美。ボクに生き甲斐を
与えてくれた初美…。

 …初美、お願いだよ、ボクの声が聞こえるなら…お願いだよ、
戻ってきて…。
 戻ってきてえええええっ!!
 初美無しじゃ、生きていく一日ごとに苦痛が増していくばか
りだ。

 …そして、初美がここに戻った時、呪いが口を開けてボクを
待っているんだ。初美はボクの子供として。そしてボクが初美
の…初美の母親に…。
 母親だって?口に出してみると、なんて変な言葉なんだろう。
運命は僕たちを傷つけて喜んでるんだろうか、初美。いったい、
初美が戻ってくるまでどのくらいかかるんだろう?そして初美
が戻った時には、ボクは壊れてしまうんだろうか?
 ひどいよ…ボクは子供なんて欲しくないんだ。ボクは愛した
ひとが戻ってくるのを見たいだけなんだ。初美を抱きしめたい
んだ。初美をこの腕の中に、泣きたいぐらいに固く固く抱きし
めたいんだ。

 どうして運命はこんなに残酷なの?どうして?教えてよ、ど
うして?
 苦しくて苦しくて、ボク、死にそうだよ…。

 初美…戻ってくるまで待っていられなくなっちゃっても、ボ
クを許してくれる?

 ねえ?

 ねえ、初美…?
 
 

 

*感想を百合茶話室にお書きください*

How did you like about this story? Please tell me in my LOUNGE BBS.

ENTRANCE HALL
INFORMATION DESK
READING ROOM
BACK to INDEX