鞭と髑髏 Peitsche und Totenkopf / 隷姫姦禁指令

 

6・暗黒の隘路 Der schmale Weg der Schwaerzung

 
 このままでは…。

 闇が森閑と支配する地下の通路を、小さなランプで仄かに照
らしながら、ラナは奈落の底に向かって歩いていた。
 ここに来ると時間感覚は全く無くなってしまう。永遠に続く
夜が、この城の暗部を支配している。だが、すでに外界では早
朝、夜が明けたばかりの頃であった。あの汚穢の地獄を少女た
ちが経験してからも、すでにかなりの時間が経っていた。

 だが、その時のラナは、その幼い身体の内にある意を決して
いた。その手には、何かをしっかり握りしめていた。

 地下牢の扉を開けると、闇の中に、昨夜の責め苦に虚脱した
ままのクラリス姫が、いつも通りに壁の手枷に拘束されていた。
半ば吊されたような公女が扉の開く音に顔を上げるのも待たず、
ラナは無言のまま傍に駆け寄ると、つま先を立てて手を伸ばし
た。
 そして、手に持っていた「鍵」を使って手枷を外した。
 さらに、反対側も。

 自由になって立ちすくむ公女に、幼い少女は決然と顔を上げ
た。

「…逃げましょう、姫さま。ここから、すぐ」

 その啓示に、クラリスはすぐには反応できなかった。むしろ、
ためらいの方が大きかった。
「無理だわ、ここから逃げ出すなんて…」

 クラリスの言葉ももっともだった。
 この城の当主の血をひきながら、クラリスはこの地下世界の
存在すら知らなかった。当然、脱出経路などわかるはずがない。
占領部隊も城の各所を警備しているだろう。それに、この城は
湖の中に建てられており、外部との連絡はたった一本市街地に
通じる橋と、小さな船着き場しかない。当然ながらそこは親衛
隊員たちにがっちり押さえられているはずだった。
 プロの泥棒ならともかく、こんな迷宮を裸の少女たちが抜け
られるとは、とても思えない。

「だいじょうぶです。わたしに考えがあるんです。でも、それ
は時間が問題なんです。今しかないんです。お願いです、姫さ
ま。わたしを信じてください」
 ラナが必死で懇願した。

 ラナは見習いだったとはいえ、この城に勤める侍女の末席に
いた。クラリスよりはこの城のことは知っているはずだった。
実はラナは、先輩の侍女から城内の秘密の通路もいくつか教え
られていたのだった。
 親衛隊員たちのほとんどは市街警備に当たっており、城内警
備の人員は最低限だった。ラナには城内で彼らの目をやり過ご
すのはなんとかなるという自信があったのだ。

「城を出る方法も、心あたりがあります。でも、それは今しか
ないんです」
 ラナは懸命に公女の決断を促した。

 俯いて考えていた…いや、迷っていたクラリスだったが、つ
いに顔を上げた。

「わかりました。行きましょう…」

***

 ラナがいきなりクラリスの脱出をはかろうとしたのは、無論
のこと、クラリスの命を救いたかったからだった。昨夜のよう
な責めがこれからも日々エスカレートしたなら、ヘルガ少佐は
果たしてどんなことを求めてくるのか。その底知れぬ欲望の果
てに、幼い少女は破滅を予感してしまった。
 このままでは、姫さまには確実に死が待ち受ける…。
 その危機感がラナに決意を迫ったことは、間違いなかった。

 だが、ラナ自身もよく自覚できていなかったことがあった。
 あのように非人間的な責めを加えられ、命さえ失いかけたラ
ナだったが、本心からご主人様であるヘルガ少佐を見限ったわ
けでもなかった。今でも、ヘルガに調教された時を思い出せば、
身体が熱くなってくる自分がいた。
 そのヘルガが、実は自分など眼中にはなく、その心はこのク
ラリス姫だけに占められていることも感じとっていた。
 嫉妬ではない。自分が嫉妬するほどの存在ではないことはわ
かっている。ただ、せっかくの掌中の玉を手に入れた主人が、
ふさわしい賞翫の仕方を見失い、ただ傷つけ砕いてしまおうと
しているのは見ていられなかったのだ。
 ラナにとっても、クラリスは宝石なのだから。

***

 城内の、日の当たる空間でしか生活したことのなかったクラ
リス姫にとって、ラナに導かれて進む居城はまるで異世界だっ
た。
 湖中に孤立する巨砦であるこの城は、何重もの多層構造にな
っていた。豪勢な近世の装飾に彩られた内装の壁一枚向こうは、
無骨な中世の石室や回廊が潜んでいる。逆に、質素な古いたた
ずまいの床の下には、近代的なインフラがさりげなく埋設され
てもいるのだった。その全貌を熟知する者は、おそらく一人も
いないだろう。
 まだ見習いだったラナが脱出に使える通路を知っていたのも、
虫の知らせで危機の到来を予感した先輩侍女が秘かに教えてい
たからだった。

 地下の階段を上がると、先導するラナは途中で隠し扉を開け、
今の城内には誰も知る者のない石畳の通路に入り込んだ。人が
一人通るのがやっとの通路は、おそらく中世に兵士を城壁沿い
に配置するためのものだったのだろう。
 照明どころか明かりとりの窓一つ無い通路では、ラナの持っ
てきたランプが唯一の頼りだった。人の通りも絶えてなかった
無骨な石畳はひんやりと冷たく、ところどころ埃が積もり、小
動物や虫の死骸が落ちてはいたが、概して無機質で清浄な空間
だった。

 闇の中を探りながら、二人の全裸の少女たちは不安を抱えな
がらも歩を進めた。何度か正体のわからないものを素足で踏ん
づけたりもしたが、気にしてはいられなかった。

「ラナちゃん、どこかで服を探せないかしら?」
 非常時であることはわかっているが、クラリスはそう頼まず
にはいられなかった。自分が公女であることを埒外にしても、
また、よしんば脱出に成功するかどうかもわからないとは言え、
このまま素っ裸でいるのはさすがにつらかったのだ。

 だが、ラナは言った。
「もうしわけありません、姫さま…」
 ラナも公女を裸のままでいさせることになったことを悔やん
だ。だが、ひとけが極端に少なくなった城内は、ほとんどの部
屋が施錠され、ラナも勝手に入れる場所はなかった。服どころ
か、リネン室すら入れず、シーツも手に入れられなかった。

 しばらく隠し通路は上に向かってあがっていたが、まもなく
下に向かって降りていく方が多くなった。訝しく思い始めたク
ラリスを、ラナが小さな扉に案内した。
 扉を開くと、そこには公女の想像もしなかった城の構造が広
がっていた。ガタンガタンガタン…と巨大なからくりが轟音を
たてて動いていた。城の上層はるかまで続く縦穴から、底も見
えない奈落にまで、縦になった円形のトンネルが連なった中を、
4本の頑丈な鋼鉄のケーブルが走っていた。
 轟音に思わず耳を塞ぎながら、クラリスはラナの掲げる灯り
を頼りにあたりを見回した。縦穴は直径が10メートルほどあ
り、壁は全て石造りだった。ケーブルはその中央にまっすぐ縦
に張られ、4本のうち2本は上に、2本は下に向かって動いて
いた。
 そして、その2本のケーブルにはかなりの間隔をあけて、大
きなバスタブほどのこれも鋼鉄製のバケットが付けられていた。
上に向かうケーブルのバケットには満々と水が満ちており、下
に向かうバケットは逆さまになっていた。

「お城のうえにまで、みずうみの水をはこぶしかけです」
 ラナが説明した。
「ここは、しかけが壊れたときに、修理するための足場だそう
です。わたしもここに来たのは初めてですけど…」

 確かに、ケーブルと壁の間は数メートルもの距離があるが、
ちょうどバケットの上下を妨げない位置に、細い足場が鳥のく
ちばしのように伸びている。

「姫さま、このしかけに乗っていけば、お城のいちばん上にま
で行けるんです」
 そう言ってランプを床に置き、ラナはクラリスを促すように
見あげた。
 公女も事情を悟った。なるほど、今まで考えたこともなかっ
たが、城の中庭にある噴水も、こうして汲み上げられていたと
いうことが初めてわかった。この水汲みのバケットに身を潜め
ていけば、あそこまで行くことができるわけである。

「わかりました、参りましょう」
 クラリスはこの忠実な幼い侍女の手をしっかり握った。そし
て、下からゴトゴトと上がってくるバケットを見下ろした。目
も眩むような高さに、そしてぎりぎり二人が入れるかという程
度のバケットの大きさに、さすがに足元が震えたが、そんなこ
とも言っていられない。幸い、水をたっぷり汲んだバケットの
上昇速度はゆっくりしたもので、乗り移るタイミングははかり
やすかった。

 クラリス姫とラナは片手をつなぎ、足場の先端に並んだ。そ
して、下から上がってくるバケットが迫ってくるのを待ち受け、
その中に向かって身を躍らせた。
 1、2メートル強の落下で、二人の少女はドボンっっと大き
な水しぶきを上げてバケットの中に飛び込んだ。勢いでバケッ
トが大きく揺れ、ケーブルが切れるかと思うほどにギシギシと
軋んだ。飛び込んだ二人は、はずみで転落しないように、水の
中に潜るようにして身を屈め、揺れが収まるのを待った。

 幸い、ケーブルが切れることもバケットがひっくり返ること
もなく、間もなく揺れは収まり、上昇していく仕掛けの振動が
水の中にも伝わった。公女と侍女は、やっと水の中から顔を出
し、ギリギリ上がっていくケーブルを見あげてほっと安堵した。

「いちばん上に、この水をひっくりかえしてためておく水そう
があるんだそうです。水はそこからポンプと水道管であちこち
に送ってるって言われました」
 ラナが説明した。
「そこの水そうにとびこめば、中庭はすぐそばなんです」

 その説明にクラリスは頷いた。だが、その先は…。

 刻一刻と揺れながら上昇するバケットに、二人とも不安げに
上を見やった。スピードがゆっくりなので、果たしていつ最上
部に着くのかも見当がつかない。飛び込むためにランプを置い
てきてしまったので、灯りは何もなく、振り仰いだ上も何も見
えなかった。

 さらに、初夏の雪融け水で増水した湖の水は、身を切るよう
に冷たい。全裸の二人には拷問だったが、考えてみれば服を着
ていたところで同じ事だろう。二人はバケットの底にお尻をつ
け、膝を抱え、顔だけ水面に出した体勢で身を縮めたが、身体
の震えは増すばかりだった。

「ラナちゃん、こっちに来て」
 クラリスが声をかけた。

「…は、はい」
 声を頼りに、少女は公女に近づいた。尊い姫君としてクラリ
スを敬愛していたラナは、どうしても遠慮してしまう。さっき
飛び込むときに公女が手を握ってくれたことさえ、畏れ多く思
ってしまっていた。

「こうすると、少しは温かいと思うわ」
 そう言って、クラリスはラナを抱き寄せて、全身の肌を密着
させた。
 想像もしていなかった厚遇を受け、ラナは息を呑んで身をこ
わばらせてしまった。だが、クラリスの柔らかな肌と、ふっく
らと豊かな乳房に顔を埋めるうちに、心臓の鼓動が早くなり、
全身が火照ってくるのがわかった。
 クラリスも、幼い少女の小さな身体を抱きしめ、その肩を撫
でながら、暖かな気持ちに癒されていた。

 二人を乗せたバケットは、やがて最上部に近づいていた。幸
運なことに、明かりとりの窓か何かがあるらしく、真上にかす
かに光が見えた。冷たい水に全身がかじかんでしまっていたが、
一歩間違えたら奈落の底に真っ逆さまに転落しかねない。ラナ
もクラリスも闇に目を凝らし、バケットが汲んだ水を貯める水
槽に飛び込む瞬間を待った。

 突然、二人の乗ったバケットが大きく傾いだ。はっと悟った
二人が、その方向に向かってドンッとバケットの底を蹴り、か
すかに闇に浮かぶ水面に向かって跳んだ。
 ケーブルを走らせる天井の滑車を越えると、バケットは一回
転して逆さになり、中の水を一気にぶちまけた。その水を受け
とめる水槽に、水と、そして二人の美しい脱走者が転がり落ち
た。逆さまのバケットは何事もなかったようにゴトゴトと下に
降りていった。

 大きなプールのような水槽は、ラナには足が届かないほど深
かった。上下感覚を失って溺れそうになったラナは、ふと脳裏
に昨日の水責めの拷問を思い出して死を覚悟したが、すぐにそ
の手を掴む者があった。クラリスがラナを引き上げ、そして二
人は奥の水べりからようやく上がることができた。

「だいじょうぶ、ラナちゃん?」
 クラリスがそっと声をかけた。

「はい、へいきです」
 ラナは気丈に振るまい、笑顔を見せた。

***

 城の上空に、エンジン音が響いていた。真っ青な静寂の空に
爆音を轟かせ、オートジャイロが軽やかに飛行している。

「あれが、少佐です」

 ラナとクラリスは、秘密の通路を抜けて、中庭近くの物陰に
身を隠していた。早朝に地下牢を抜け出していたが、暗黒の隘
路を這いずり回った二人がようやく陽光の下に出られた頃には、
すでに昼下がりになっていた。城を吹く風は肌に冷たく、全裸
のままだった少女たちは寒さと、そして誰かに見つかるのでは
ないかという心許ない不安に包まれていた。
 幸い、兵士たちはオートジャイロの臨時倉庫兼滑走路になっ
た中庭そばの開けた広場に集結しており、二人の近辺には人の
気配は全くなかった。

 ラナが視線をオートジャイロに向けてクラリスに言った。
「少佐は一日おきに、昼さがりにあの飛行機にのるんです。帝
国軍の新兵器だって兵隊さんが言ってました。テスト飛行なん
だそうです」

 クラリスも思わず機体を目で追っていた。
 ヘルガ少佐が、あの飛行機に…。

「あの飛行機で、ここからにげます」

 ラナが呟いた、その言葉にクラリスは思わず目を皿のように
見開いた。

「まさか!?」

「あたしのおじいさんは、東の国で軍隊ののりものをつくって
いたんです。あたしもこどものころに自動車を運転させてもら
いました。飛行機の座席にものせてもらったことがあるんです
よ。飛ばしたことはないですけど」
 そう言ったラナに、クラリスはまた驚かされた。
「ただ、飛行機のエンジンは完全にとまっちゃうと、ひとりじ
ゃうごかせないんです。姫さまに手つだっていただくことはで
きませんし」
 確かにクラリスは飛行機など触ったこともない。
「だから、少佐が飛行機をおりたあと、みんなが目をはなした
すきに、あの飛行機にのろうと思うんです。おりたあともしば
らくはエンジンを完全にはとめないはずですから、きっとすぐ
に飛べると思うんです」

 思いも寄らなかった大胆な計画に、クラリスは仰天するしか
なかった。こんな幼い少女のどこにこんな度胸があるのか、公
女は不思議に思うと同時に圧倒されていた。

「飛行機は飛ばしたことないですけど、操縦桿の動かしかたは
おじいさんに教えてもらったことがあります。だいじょうぶで
す、ほんのすこし飛ばして、橋のむこうの町にまでたどりつけ
ば、きっとなんとか身を隠せます。町のひとに服をもらって、
どこかに身をかくすか、自動車をつかって町からにげましょう」

 あとから考えれば、大きな穴だらけの計画だった。無謀でも
あった。だが、クラリスは頷いた。この少女の命懸けの献身に、
異議を唱えることなど思いもよらなかった。

***

 数十分の飛行を終え、オートジャイロは再び垂直に近い角度
で中庭に降下してきた。巨大な回転翼が落下スピードを抑え、
機体は正確に、臨時着陸ポイントに降りてきた。クラリスは初
めて垂直離着陸する回転翼飛行機を目にして、帝国の最先端テ
クノロジーに驚愕した。
 漆黒に塗装されたオートジャイロは、ラナの言ったとおりエ
ンジンの回転数を落としたものの停止はしなかった。そして、
コクピットが開くと、ヘルガ少佐があの黒い飛行服姿で姿を現
した。兵士がステップ代わりに自分の肩を差し出すが、少佐は
やはりその世話にはならず、一気に軽々と地上に飛び降りた。

『少佐…!』
 クラリスは、またも我が目を疑った。あの地下室で、同性愛
と加虐の欲情に燃える姿とはまるで別人のような、凛々しく、
雄々しく、そしてきびきびと部下を指揮するカリスマに満ちた
その姿に、公女は思わず釘付けになっていた。
 そして、飛行帽を外してあの燦めくような黄金のロングヘア
が流れると、公女の胸の奥がきゅんっと高鳴った。

『私、やっぱり…』
 クラリスは、自分でわからなくなっていた。あれだけ酷い仕
打ちを受けているのに…。やはり自分は少佐の言うとおり、淫
乱な変態なのだろうか、と、公女は目を伏せた。

 ラナも、そんな公女の姿に気づいていた。だが、今は何とか
してクラリスをこの地獄から救い出さなくてはならない、と強
いて気を張った。

 降機したヘルガ少佐は、ゆっくりと手袋を外していた。陽光
に眼鏡が反射する。
 機体は二人の兵士が、ワイヤーで牽引して中庭の隅に向かっ
て移動させていく。案の定、移動の便のためかエンジンはかか
ったままだった。

 そこに、そそくさと部下が歩み寄って、何かの封書を差し出
した。

「何か?」
 無表情にヘルガが言った。

「…総統府から、親書が」

 はっと顔を上げたヘルガは、いきなり部下の手から手紙をひ
ったくるように奪い取った。そしてビリビリと封を切り、目を
通した。
 やがて、少佐は思わずその手紙を固く握っていた。

『…クラリス姫を、帝都に護送せよ、だと?!』
 総統直筆の手紙には、大公夫妻が協力に消極的なため、それ
を懐柔するために公女を帝都に呼び寄せる、と書かれていた。
だが、ヘルガにはその裏の意味が手にとるようにわかった。

『…誰が入れ知恵したのか…!どうせ、クラリスを我がものに
する気に決まってる…っ!』

 総統は下層の出身で、天才肌ではあるがコンプレックスの強
い男で、上流階層に対して強いルサンチマンを抱えている人間
だった。そのせいか、貴族や王族といったものに奇妙な敵意を
持っていた。
 そんなところにクラリスを送れば、どんなことになるか、火
を見るよりも明らかだった。
 いや、何よりもヘルガ自身にとって、それは首肯しがたいこ
とだった。

『…色惚けの総統(フューラー)め!クラリスは私のものよ!
絶対に渡すものか!』

「帝都と連絡を!通信班を!ことによったら帝都に戻って談判
するっ!」
 怒気を帯びた声をあげて、ヘルガ少佐が中に戻ろうとした。
兵士たちも、指揮官のただならぬ様子に駆け寄るか、または不
安そうに目をやっていた。

「…今です!」
 ラナがその言葉と共に、物陰から機体に向かって駆け出した。
クラリスも一緒に走り出した。
 何があったのかは、二人にはわからなかった。ただ、明らか
に兵士たちの注意が全て歩み去るヘルガ少佐に向いていたのは
間違いなく、これは絶好のチャンスだった。

 裸の少女たちは、機体に一気に駆け寄ったが、整備員たちは
背を向けていて気づかなかった。コクピットは高い位置にあっ
たが、近くに整備用の踏み台があった。ラナを抱え上げて先に
座席に乗せると、続いてクラリスが縁に手を掛けて一気に操縦
席に身を滑り込ませた。
 操縦席は単座だったが、クラリスが下になって、膝の上にラ
ナを抱えるように座らせると、二人とも目の高さが同じになっ
て、前が見えやすくなった。

 機械に強いラナが、スロットルのレバーを引き、落ちていた
エンジンの回転数を一気に上げた。
 いきなり出力の上がった主エンジンの轟音に、異常を察知し
た整備員たちが振り返ったときには、すでにメインプロペラは
全開になっていて、機体は前に動き出していた。
 慌てる整備員たちを蹴散らすようにして、オートジャイロは
スピードを上げて中庭の広場に疾駆し始めていた。

「姫さま、もうしわけありませんっ!、からだをおさえていて
ください!」
 クラリスの膝の上で、どうしても体勢が不安定なラナだった
が、必死で操縦桿を握る。公女もラナの細い腰をしっかりと抱
きしめた。

 非常事態に、城内に入りかけていたヘルガ少佐と部下たちも、
もとの中庭に駆け戻ってきた。

「あの娘たち…っ!」
 コクピットに座っているクラリスとラナの姿を視認して、ヘ
ルガ少佐は目を疑ったが、すぐに軍人らしく状況を呑み込んだ。
近くの兵士たちが銃を構えている事に気づくと、少佐が咄嗟に
殴りつけた。
「馬鹿者!機体を傷つける気か!」
 だが、その言葉の裏で意識していたのは、もちろんクラリス
のことだった。

 上部の回転翼も回転を始め、すでにオートジャイロは離陸寸
前にまでスピードを上げていた。しかし、いかに機械に強いと
はいえ初めて飛行機を操縦するラナである。自動車とは勝手も
違った。小さな中庭はあっという間に尽き、まだ浮かび上がら
ないうちに、オートジャイロは城壁近くまで突進していた。そ
して、スピードを維持したまま機体は身投げでもするかのよう
に宙に躍り上がった。

 機体が一気に落ち、凄まじい落下感覚が少女たちを襲う。
「きゃあああああっ!!!」
 初体験の恐怖に、クラリスが悲鳴をあげた。ヘルガ少佐も思
わず惨劇を想像して身を固くした。

 だが、ラナがその小さな両手で必死に操縦桿を引いた。頭か
ら落下しかかった機体は、何とか上を向いた。オートジャイロ
は湖に墜落寸前、かろうじて体勢を取り戻し、水面すれすれに
飛行を開始した。

「やりました、姫さま!」

「ラナちゃん!」

 少女たちが初めて笑顔をこぼした。これで自由…!

『でも、自由って?』
 互いに明かしはしないまま、クラリスもラナもふと思った瞬
間だった。

 エンジンがおかしい。

「え?ええ?」
 慌てるラナ。エンジンの回転数が上がらず、安定しない。

「どうしたの?」

「エンジンが、どうして?…ああっ!!」
 あまりにも大きな、おおきなミスだった。
 燃料計の針が0近くを指していることに、ラナはこの時初め
て気がついた。

 考えてみれば当然のことだった。恒例のテスト飛行であるか
らは、燃料はそれに見合った量しか補給されていない。まして、
オートジャイロは燃費が悪く、すぐに燃料を使い切ってしまう。
 巧妙に占領軍の裏をついて考えついた計画だったが、やはり
ラナは子供だった。大きな落とし穴が待ちかまえていた。

「ラナちゃん!」

「姫さま!つかまっていてください!」
 幸い、オートジャイロはエンジンが止まっても、頂部の回転
翼は下降に合わせて回転し、ゆっくりと降りることを可能にす
る。ラナは機首のエンジンをぎりぎりまで絞った。着陸時に再
度エンジン出力を上げ、降下をコントロールするためである。
 機首のプロペラが目に見えて遅くなったが、幸い、機体はそ
のまま浮遊するように降下スピードを抑え、じわじわと高度を
下げていった。

 ラナは、市街地近くに着陸することを諦めた。燃料が切れた
今は、最短距離で着陸できる湖畔を探すしかない。やむなくラ
ナは目の前に見えてきた森の方に機首を向けざるを得なかった。

「姫さま、あの森に降ります!」

「わかりました!」
 こうなってはラナに任せるしかない。一蓮托生だった。

 湖畔が近づいたが、高度はドンドン落ちていく。
「なんとか、なんとかもたせないと…!」
 ラナは祈るようにして操縦桿を握り、高度を維持しようと何
度も引いた。
 クラリスも、この絶体絶命の状態に祈るしかなかった。

 陽の傾きかけた湖の水面は、まるで実りの麦畑のような黄金
色に映え、さざ波に照り輝いていた。その湖面の上に、オート
ジャイロの黒い機体が反射し、回転翼が吹きつける風が水を巻
き上げ、城から一直線の帯のように波が広がっていた。
 オートジャイロは機首エンジンを絞り、上部の巨大なプロペ
ラが回って風を切る音だけを発していたため、あたりは奇妙な
ほどの静けさが支配していた。機体に乗っていた二人だけでな
く、城から見つめる兵士たちも為すすべなく、黒い飛行物体の
逃避行を息を呑んで見つめていた。
 そして、ヘルガ少佐もまた、機体が飛び立った城壁の際まで
駆け寄り、おのれに抗った逃亡奴隷たちの航路を凝視していた。

 ラナが再びエンジンの回転を思いきり上げた。凄まじいエン
ジン音が静かな湖面に響き渡り、機体は再びわずかに上昇した。
湖畔が崖になっていたため、このままでは激突する、と判断し
たのだ。
 だが、それがこの機体に残された燃料の最後だった。一瞬、
力を取り戻したエンジンは、再び排気をかすれさせて今度は完
全に停止してしまった。
 あとは、この機体を維持しながら、無動力で回転し続ける巨
大プロペラの揚力に頼って、どこかに軟着陸するしかない。ベ
テランの飛行士ですら難しいことを、いくら機械に慣れている
とはいえ飛行機操縦は初体験の、しかも12歳足らずの少女に
は重すぎる荷だった。

『でも、やらなきゃ…!』
 ラナは必死で操縦桿を引き、落ちていく高度を維持しようと
した。後ろで抱きかかえてくれているクラリス姫の両腕の力と、
そして背中からお尻に接する素肌の柔らかさと体温が、少女に
は何よりも心強く思えた。

 湖畔の崖の上には、すでに青々とした森がせり出していた。
鬱蒼とした湖畔の森には着陸に必要な広さの平地はあまりない
はず。燃料もなく、見落としたら、旋回するだけの余裕はない。
着陸点を探す集中力と、決断力が必要だった。

「ラナちゃん、右に!」
 クラリスが叫んだ。見ると、確かに森の中にわずかに空間が
ある。公女の観察力と助言に感謝して、ラナは操縦桿を右に倒
した。

 右旋回した機体はぐっと高度が落ち、プロペラの回転も遅く
なりつつあった。このまま一気に着陸するしかない。着陸点の
安全を確認する余裕はなかった。
 少女たちにできるのは、神に祈ることだけだった。

 機体はゆっくりと降下していく。巨大なプロペラの回転で、
地上の草むらが水面の波紋のように波打って同心円状に広がっ
ていた。幸い邪魔になる岩場や段差はそれほど無さそうだった
が、周りから迫るように伸びてくる木の幹や枝が不安だった。
プロペラが太い木に当たれば、機体が木っ端微塵になる危険も
ある。
 だが、他に選択肢はなかった。

 ラナはできるだけ垂直に、その空き地に機体を降ろしていっ
た。オートジャイロは明らかに降下速度を緩めてはいたが、し
かし、機上の二人にはどうしても自由落下に等しい体感だった。
恐怖と絶望に身をすくめながらも、二人は必死だった。クラリ
スはラナをしっかり抱きかかえ、ラナは操縦桿を押さえ続けた。

 一瞬、全身が浮き上がるような感覚があったと思うや、すぐ
さま凄まじい衝撃が二人を襲った。バキバキバキッ!と激しい
音が響いた。回転するプロペラが近くの木の枝に当たったのだ。
プロペラは枝を両断したが、自分もまた衝撃を受けてねじれ、
大きくしなった。そのはずみで、さらに別の枝を剪断し、機体
は何度も跳ねるように揺れた。
 ついにプロペラの一枚が鈍い音を立てて割れるように折れた。
吹っ飛んだプロペラが弾けるように跳んでいき、そして機体は
一気に地上に落ちた。着陸用の車輪脚3基が機体の自重を支え
きれず、潰れるようにいっぺんに全部折れ、胴体がドーンっ!
と地上にぶち当たった。

 激しい衝撃にクラリスもラナもミキサーの中のように跳ね、
何度も頭をキャノピーにぶつけた。流血しなかったのが不思議
なくらいだった。だが、その途端、二人は同時に気を失ってい
た。

 オートジャイロが途中で墜落せず、湖畔の森の中に降りてい
き、爆発も炎上もしなかったのを双眼鏡で確認して、ヘルガ少
佐は眼鏡の下に安堵を隠し、踵を返して追跡の指示を出すべく、
部下たちのもとに戻っていった。

「探索班を組織して、脱走者を確保せよ。ただし、絶対に殺し
てはなりません。衛生兵も同行させなさい」
 そう命じた少佐は、如才なく付け加えた。
「整備兵は、機体の回収準備に当たること」
 
***

 どれくらい気を失っていたのか、先に気づいたのはラナだっ
た。自分が死ななかったのが信じられないほどだった。振り向
くと、クラリスはまだ失神したままだった。自分が先に目覚め
たのも、クラリスが抱きかかえて護ってくれていたからに違い
ない、とラナは思った。

「…姫さま」
 そっと呼びかけた少女の声に、公女はわずかに顔をしかめ、
そっと目を開けた。

「…ラナちゃん、だいじょうぶ?」
 呟いたクラリスに、ラナは思わず抱きついていた。
「姫さま…!」

「…助かったのね、私たち。あなたの勇気のおかげよ、ありが
とう、よくやってくれました」

「姫さま、ごめんなさい、わたしのせいで、こんなおそろしい
目にあわせてしまって…!」

 燃料を全て使い切っていたことがかえって幸いした。あの着
陸の衝撃と破壊では、もし燃料が残っていたら、確実に引火し
大爆発を引き起こしていたはずだった。そうであれば、二人と
も今ごろは地獄の業火に焼かれて命を落としていただろう。
 頭を風防に打っていたが、せいぜいこぶをつくり、身体のあ
ちこちに打ち身があったくらいで、幸運にも骨折もしていない
ようだった。
 自分たちが生き残ったことに少しばかり現実感を喪失しなが
らも、ラナがキャノピーを開けると、ひんやりとした森の空気
が一気に少女たちを包んだ。クラリスはラナを抱え上げるよう
にして先に下におろしてから、自分も降機した。

 外に出てみると、機体の惨状がはっきりわかった。プロペラ
が巻き込んだ小枝が散乱する中、頑丈そうに思えた機体は大き
くひしゃげ、三本の車輪は完全に潰れていて、脚が機体を串刺
しにするように突き立っていたのを見た時には、二人とも思わ
ず冷たいものが背筋を駆け抜けた。

 刀身のようなプロペラを恐る恐る避けながら、クラリスとラ
ナは身を屈めて機体から離れた。すでに陽が傾き、空は鈍い茜
色に染まっている。
 ラナの目論見では、このあと町に身を潜めるつもりだったが、
それはすでに不可能だった。ここは町とは正反対側の湖畔であ
り、山脈の寒冷樹林帯に続く森が果てしなく続いている。人里
もない。
 二人の少女は、一糸も纏わぬ生まれた姿のまま、この苛酷な
大自然の真っ直中に放り出されてしまったのだった。ラナがも
う一度コクピットに戻って覗き込み、外気を遮るための布なり
とわずかでも無いかどうか確かめたが、命を救ってくれた神様
ももうこれ以上の幸運を二人に与えてはくれなかった。

「しかたありません。とにかくここを一刻も離れましょう。飛
行機の落ちた場所は占領軍にも見えたはずです。きっとすぐに
追っ手が来るでしょう」
 クラリスが言った。

「はい」
 ラナが答え、二人は道もわからない森の中に踏み込んでいっ
た。

 町に行くには湖畔沿いに行くべきだろうが、あいにく人の通
れそうな道もなく、何よりも湖畔から町に向かえば、自分たち
を追ってくる部隊に丸見えになってしまう。夜の帳が迫る夕暮
れに、森の中を移動するのは危険この上なかったが、二人は逃
げるしかなかった。

 ゆくあても定かならぬ黒き森の中を、非力な少女たちはそれ
でも手をつなぎ、ひたすら進み続けた。

***

「愚か者!」

 激昂したヘルガ少佐が、その乗馬鞭で部下を思いきり打擲し
た。
 鞭の痛みにひっくり返った部下がのたうった。

 追跡部隊が編成され、町を抜けて湖畔沿いに森に向かったが、
街道ではない山地の道のりは平坦ではなかった。ようやくオー
トジャイロの墜落地点に先行部隊がたどり着いたのは、日も暮
れかかっていた夕刻だった。
 機体に遺体が残されていなかったところを見て、脱走者が生
存していることはすぐにわかった。だが、夜も近づいており、
周囲に不案内な兵士たちは闇雲に森に踏み込むことを恐れた。
 そして、先行部隊の隊長は逃亡者を逮捕するために、あまり
にも安易な手段をとってしまっていたのである。

「逃亡者を殺すな、と命じたことを忘れたのか!」
 珍しくヘルガ少佐が感情も露わにして、部下を罵った。
「…ドーベルマンを放った、だと!相手は裸の小娘二人なのに!」

 標的を正確に追いつめる猟犬たちは、ヘルガ少佐自慢の、手
塩に掛けて訓練して育てた戦力だった。その忠実に任務を遂行
する能力は、この美女将校が誰よりもよく知っていた。
 だからこそ、ヘルガはその脳裏に、忠犬たちが愛しい美隷た
ちの喉笛を食いちぎる光景をリアルに浮かべざるを得なかった
のである。

「全員、この場所に待機!別命を待て!何があろうとも、この
場所を動くことは許しません!」
 ヘルガはそう言うと、部下が乗ってきたサイドカー付きの二
輪車に自ら飛び乗った。
「朝になっても私が戻ってこなければ、総員城に戻り、総統府
の指示に従いなさい!」
 最後の命令を兵士たちに伝えると、美しき親衛隊高級将校は
アクセルをふかし、夜陰に沈みつつある広大な大森林の中に向
かって単身、バイクで突っ込んでいった。
 

続く

 

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