黒き糸を紅く染めて ミレイユ・ブーケはゆっくりと目を開けた。ぼんやりと霞ん だアパルトマンの天井が見える。 朦朧とした青い瞳を疲れ果てた様子でしばらくまばたきさせ て、ミレイユは視界を取り戻した。そして深く息を吸って、ほ とんど聞き取れないくらい静かに息を吐き出した。 絹のようなすべすべの肌触りの、そして同時にしなやかな肉 体が、わきから押しつけられて、心地よい温もりを発していた。 それがベッドシーツの下の裸身にじんわりと伝わってくる。 もう一度安堵の息を吐きながら、ミレイユは隣の存在にも慣 れてきていた。 全てがこうなるまでに、ずいぶんと長い時間がかかってしま った。一緒に寝るのが普通よりは大きめのシングルベッドなの は、元来は若い女性と少女の二人でアパルトマンに一つしかな いベッドで寝るため必要に迫られてのことだった。 だが今は、その理由は全く別。ミレイユの「人生」が今や別 のものになったからなのだが、しかし、かつての来た道を振り 返る余裕などミレイユにはまだない。 ミレイユは隣の存在に廻した腕を引き寄せ、自分の身体に密 着させる。その動きに、静かにはっと息を呑むのが聞こえた。 ミレイユの口元に微かな笑みが浮かぶ。 そして、その存在が目を覚ました。ミレイユは驚いたりしな い。それはほぼ毎朝いつものことだから。 枕の上で、ミレイユは霧香に顔を向けると、その褐色の瞳は、 もう激しさは無かったけれども、ただひたむきで、しかもいく ぶんうっとりしていた。少なくともミレイユにとって、霧香の 瞳は表情豊かで、魂のこもった雄弁さを備えていた。 寡黙な少女は、よくそんなふうにパートナーを見つめた。た だ見つめているだけなのに、同時にそれ以上の何かが伝わって くる。最初のうちはそのあまりに熱い視線に、まるで自分が霧 香を恋の虜にしてしまったかのように思えて、ドギマギしてい たミレイユだった。だが今はもちろん、ミレイユはその瞳にす っかり心地よさを感じている。実際、ミレイユはその瞳を待ち 望み、ハッキリ言って、渇望さえしていた。それは、霧香がミ レイユを虜にする多くのことの一つに過ぎないし、今となって はそれ無しで生きていくなんて想像もできない霧香の持つ特異 さの一つに過ぎないのだが。 「おはよう」 零れそうなほどに微笑みを顔一杯に浮かべて、ミレイユがそ っと言った。 「おはよう」 静かな声で答えた霧香が、そのままミレイユを見つめたが、 今は視線を合わせられなかった。 二人だけの時…すなわちほとんどの時間ということになって しまうが、そういう時はいつも二人は日本語で会話する。仏語 が圧倒的に羽振りをきかせる街中では、ミレイユと霧香にとっ ては、そのほうがたとえ人混みの中でもプライバシーを保てる というもの。二人の小さな世界は、二人しか存在しないのだか ら。 もっとも、ミレイユが霧香と出会って以来ずっと、必要な時 には英語や他の言葉を使うとはいえ、少なくともプライベート の時は霧香と日本語で話し続けてきたのも変な話ではある。そ れはたぶん、初めて霧香と出会ったのが日本で、そして霧香が 日本人だったというせいなのだろうか。理由はどうあれ、外国 に来た霧香が最初のうちどうしてもリラックスできなかったこ とを、ミレイユはわかっていた。ミレイユの霧香への気持ちは、 その頃とは明らかにずいぶん変わっていた。 ミレイユの左手が、霧香の肩からうなじに動いていき、寝癖 のついた黒髪を指で優しく巻いたりして弄びだした。 「よく眠れた?」 からかうようにそう訊いたミレイユは、皮肉っぽく、そして 挑発するかのようにブロンドの眉を吊り上げた。 「うん」と肯定の返事をかすかに言いながらコクンと頷いた霧 香は、ミレイユの言葉の裏まではわからなかった。 思わず苦笑するミレイユ。この少女が昨夜のほとんどを二人 で何をして占めてしまったかを忘れてしまったなんて信じられ るはずなかった。ずっと年上の人間たちが束になってすらも及 ばないほどの戦闘能力を備えた霧香でも、本質的にはまだ幼い 子供なのだ。霧香はまだそんな無垢な心を保っている。たとえ その人生が「無垢」とは遙かにかけ離れたものになってしまっ ていても。そしてそんな霧香の心を、ミレイユもどこか嬉しく 思った。 昨夜の熱い出来事についてはこれ以上突っこまないことにし て、その代わりにミレイユはちょっと身を寄せて霧香の唇に軽 く口づけした。 「好きなだけ寝ていていいわよ」 そう言ったミレイユに、霧香は再び目を開け、キスしながら また目を閉じる。 「今日は私が朝食を作ってあげるから」 「ううん」 軽くかぶりを振る霧香。 「だいじょうぶ。わたしも手伝うから」 微笑むミレイユ。霧香はいつだってミレイユを手伝おうとす る。そしてこの黒髪の少女は、めったに「いや」と答えること はない。 「いいわ、じゃあ霧香はお茶を淹れてね」 ミレイユがそう言うと、霧香は素直に頷きながら微かで嬉し げな微笑みを送った。 霧香の身体の下から腕を抜いて、ミレイユがベッドの上に起 き直ると、その裸身を包んでいたシーツがするりと落ちた。上 品にあくびをこらえてから、ミレイユはベッドから降り、ちょ っと呻りながら天井に届きそうなくらいに背伸びをして、痛む 筋肉の凝りをほぐした。 そしてミレイユは、洋服をしまってあるそばの青いドレッサ ーに近づき、白いシルクの下着を取りだして身につけた。ベッ ドから出た瞬間から霧香の目が自分に釘付けになっていること をちゃんと気づきながら、ミレイユは全て承知の微笑を顔に浮 かべて、ベッドに振り返った。果たして、振り向いたミレイユ と少女の視線が重なった。 「いいもの見ちゃった感じ?」 ちょっと照れながら囁いたミレイユに、霧香の視線は一瞬ミ レイユが着始めた服に遮られたが、すぐにまたミレイユの目を 見つめた。金髪の美女は、パートナーがその姿から目を離せな くなっていることを百も承知で、仕舞っていたガウンを引っ張 り出すと、ゆっくり時間をかけて身に纏った。 美女の半裸姿から霧香はさっと視線を外し、何も言わずにベ ッドに仰向けに寝転がった。 その様子にミレイユはただ苦笑しただけで、室内履きを履い た。霧香をこんなふうにからかうのも楽しい。少女は赤面した りする顔を見せたりはしないけれど、時折はこんなふうに恥ず かしげな様子を見せたりする。二人の間柄が肉体関係にまで進 んでしまった今でも。霧香の年齢からすれば普通とは言えない が、ミレイユには何とも微妙な戸惑いの気配を見てとった。そ してそんな霧香の表情を引き出すことに、ミレイユは無上の喜 びを感じていた。 ミレイユはガウンの背に挟まったブロンドの髪を首を振って 払い、とっとと足を踏み出してベッドルームからアパルトマン の主室に入っていった。ミレイユの視線は自然と、プールテー ブルのそばの、窓際の小さな四角いテーブルに乗った鉢植えに 向かった。 前の鉢植えが壊されてしまった後、ミレイユは新しいのを買 っておいた。前のとは全然違ってはいたが、今度のは長くて大 きな緑の葉の合間にペイルピンクの花がたくさん顔を出してい る。パリに戻ってすぐにこの花を買って以来、ミレイユと霧香 は、以前もそうだったように交替で水を遣ったりして、分担で この花の世話をした。やがて、つぼみがほころび、花を開き、 毎日毎日ピンクの花を咲かせるようになった。 満開に咲き誇ったこの花を見るたび、ミレイユはいつも幸せ を感じる。この花は自分と霧香との絆の象徴、そして二人がず っと一緒であることをいつも思い起こさせてくれるものだった。 この至福の、平穏な日々にたどりつくまで、道のりは決して 平坦ではなかった。 自分と霧香との間にどれだけのことがあったのかを思い出し ながら、ミレイユはちょっとノスタルジックに苦笑した。 初めて出会った時、ミレイユは霧香にあまりに冷淡に接した。 この少女を最初は単なる道具としてしか見なしていなかったの が、やがて友達以上に、実質上の相棒にまでなっていった。 しかし、やがて時と共に…。気が付かないうちに、霧香はミ レイユの頑なな心の中に入り込み、その心を包む氷を暖めて融 かしていた。徐々にミレイユは自分に何が起きているのか悟り、 そして二人の関係を変化を何とかして阻止しようと試みた。 だがそれは結局全て徒労だった。その時には霧香はとっくに ミレイユの心をすっかり虜にしていたのだった。にもかかわら ず、ミレイユは自覚した後も自分の気持ちを拒み続け、霧香が もはや必要ない存在になった時には自分の手でその命を絶つと いうあの約束を守ろうと、心に決めていたのだった。 痛々しげにかぶりを振るミレイユ。 何てバカだったんだろう。霧香を殺す?その時にはもう、そ んな約束を果たすにはとっくに手遅れだったのに。 とうとうその時が来た時、ミレイユは霧香を殺そうとした。 だが殺し屋のはずのミレイユは、明らかに躊躇し、ためらい、 かえって霧香に猶予を与えた。それは単にまた自分を欺いてい たにすぎなかったのだが。 そして、霧香が去った時。…ミレイユは最初、自分の人生が また元通りに、普通に戻ったことを喜んだ。だが霧香がいなく なって、ぽっかり穴の開いたような空虚感の中、ミレイユの心 の中に残っていたのはただ一つだけだった。認めたくなかった もの。だが、それは確かにそこにあった。 そしてもちろん、あの霧香の置き手紙。内向的な少女がミレ イユに抱いていた気持ちを赤裸々に綴っていた手紙。ミレイユ の心を押し殺していたものを木っ端微塵にした、あの手紙。 ミレイユはあの手紙を今でも大切に持っているが、霧香には その事を決して打ち明けようとはしない。たぶん気が付いてい るだろうとは思っているけれど。 しかし、もともと依怙地な性格のミレイユだったが、最後の 最後に、霧香が最後の瞬間に向けて再びミレイユの元を去ろう とした寸前、ミレイユはとうとう自分の心に向かい合った。死 の淵に立った霧香に、ついにミレイユは自分を偽ることを止め、 自分がこの少女に何を想っていたのかを直視した。自分が霧香 の心を分かち合っていたことを、そして…。 パリに戻って、ミレイユと霧香の間はゆっくりと前に進んで いった。 いつもひとりぼっちで生きてきたミレイユは、今やパートナ ーを…人生の「パートナー」を得た。それはミレイユにとって 大きな一歩だった。霧香はミレイユよりはほんのちょっぴり自 分の心を開いてはきていたし、今まで通りに二人の関係の変化 をどうするかをミレイユに任せ、我慢強くミレイユが受け入れ てくれるのを待った。 結果として、二人の愛は互いに少しずつだが、まるで二人で 世話をしていた鉢植えの花のように成長していった。最初のう ちは、会話が増え、そしてとりわけミレイユの側の親しさが増 した。まもなく、意味ありげな視線と、なにげない触れ合い (手でちょっと触るくらいだったが)。 だが、そんな気軽な触れ合いは、やがて愛撫になり、固く抱 きしめ合うようになり、そして最後には、ミレイユは緊張しな がら初めて霧香とキスして、自分がどれほど霧香のことを想っ ていたかを告白する夜を迎えたのだった。自分が霧香を愛して いると認めることはミレイユには大変なことだった。自分が誰 かを心から愛していると言うことも初めてのことだった。 最後の障碍が消えて、二人の愛はあの鉢植えの美しい花同様 に、時と共に育ち、花開き、ますます明るく咲き誇ったのだ。 窓際のラジエーターにもたれながら、ミレイユは自分の黄色 いスクーターが停めてあるところを見やった。 もう何ヶ月も乗っていない。なぜって、一人乗りだから、今 のミレイユはもうほとんど使うことがないのだ。 私は、もうひとりぼっちじゃない。ほら、言い伝えがあるで しょ?永遠の恋人たちは小指を赤い糸で結ばれているって。私 と霧香をつなぐ糸は、いつの間に赤く染まったのかしら? ミレイユは信じていた。少なくともそうであるべきと思って いた。自分と霧香をつなぐ糸は、闇よりも黒い糸なのだと。 だがその糸はどこからか、深紅に染まっていった。ミレイユ は霧香の事を想うことを拒む心のどこかで、自分の自立が失わ れることを怖れていた。だが心の別のところでは、それを喜ん で受け入れていた。 ミレイユは恋に落ちていた。 今のミレイユと霧香はカップルであり、家族でもあった。そ れはミレイユにとって長らく経験したことのないことだった。 自分の家族を殺した者と恋に落ちるだなんて、人はなかなか 信じないだろう。ミレイユの両親は今この時、墓の下で眠って いるのだ。だがミレイユは、霧香を自分の家族を殺した仇など とは見なさなかった。それはこの少女のせいなんかじゃない。 少女はその時、幼すぎただけなのだ…。そして全てを握ってい たアルテナに操られていただけなのだ。ミレイユが家族を殺し た者を責めるとするなら、それはアルテナとソルダの荘園にこ そ向けられるべきなのだ。アルテナは非道な行動を実行する道 具として霧香を利用したに過ぎない。霧香は「武器」ではあっ たが、その武器を使ったのはアルテナ。起きてしまった犯罪に ついて、非難されるべきは武器か、それともその使用者か、問 うまでもない。 霧香は犠牲者。そう、ミレイユは思った。そしてきっと両親 も同じように思っているだろうと、ミレイユは信じた。きっと 両親は安らかに眠っているに違いない。両親を手にかけた者は、 すでにその報いを受けたのだから。 「ミレイユ」 ミレイユの後ろから静かな声が聞こえた。その声は他の誰に も真似できない、ミレイユの名前を一音ずつ愛撫するかような 響きだった。 夢想から醒めて振り返ったミレイユの前には、いつも寝る時 に着ている上着とショーツ姿でベッドルームから数歩踏み出し てきた霧香がいた。ミレイユを不思議そうに見つめる霧香に、 ミレイユは頭に手を当てて、そっと微笑んだ。 「ちょっとぼんやりしちゃってたわ」 こめかみを揉みながら、ミレイユが言った。 霧香の顔から訝しげな表情が消え、全てわかったという表情 に変わった。霧香はミレイユに歩み寄っていきなり抱きしめ、 背の高い美女の細いウエストに両腕を廻した。 少女をぼんやりと見下ろすミレイユに、霧香が顔を上げて見 つめた。 「最近多いね」 そう言った霧香の目は、ミレイユの背後に視線を移した。 「そう?」 ミレイユは驚いたふりをして答えた。 だが、霧香が気づいていることなど、ミレイユだってわかっ ている。いつだって霧香はミレイユのことの全てを感じとって いる。「パートナー」の意味が変わってしまった今でも、以前 と変わらず控えめな黒髪の少女だが、霧香は実に鋭敏なのだ。 たった今までミレイユが追憶にふけっていたことに霧香が気づ いていたのは間違いなかった。 霧香は何も言わずに、しばらくそのまま抱きしめていた。言 葉なんか必要なかった。 ミレイユも霧香をその腕の中に抱きしめ返し、そして少女の ショートヘアに指を滑らせた。 「さ、霧香はお茶を淹れてね。私はすぐに朝食の用意を済ませ るから」 霧香の華奢な肩に両手を置いて、ミレイユが言った。 霧香は嬉しそうに頷いて微笑ながら、ミレイユもよく承知の 「うん」という愛くるしい返事をする。そして金髪の恋人を残 してパタパタとキッチンに駆けていき、視界から消えた。 その後ろ姿をミレイユは見つめていた。 最近の霧香、ほんとうによく笑うようになったわ…。 「霧香、この間買ってきた新しいブレンドのお茶を使ってね」 姿の見えない少女に向かって、ミレイユが後追いで呼びかけ た。 「わかった」 霧香の返事が聞こえた。 コンロに置きっぱなしのヤカンのようなカタカタいう音を耳 にして、ミレイユはコンピュータが置いてあるプールテーブル に駆け寄った。起動スイッチを入れて傍の椅子に腰掛けると、 ティーポットと朝食用の食器をキッチンから運ぶ音が聞こえて きた。結局、霧香が朝食の用意を全部することになりそうだっ た。 「すぐ終わらせるから」 あまり気にしていない様子だが、ミレイユは上の空で呟いた。 手伝うことで、霧香が一人で食事の用意をするという一般的な 少女らしさへと到達するようになるとミレイユはわかっている。 こんな事はよくあることだった。霧香はただ、できることなら 何でも、ミレイユの手伝いをするのが好きなだけなのだ。そん な霧香をミレイユはいじらしく思った。 まもなくコンピュータのOSが立ち上がった。インターネッ トにログインして電子メールをチェックしながら、ミレイユは モニター越しに注意深くキッチンに目を配り、霧香が朝食の用 意にかかりきりなのを確かめた。暗殺者として用心しつつも、 ミレイユの保護されたeメールアカウントのボックスにはいく つか、確実性の高い依頼が寄せられていた。 あるものはミレイユ自身に、そしてあるものは「ノワール」 に。 スペイン国境からパリに戻ってきた後、以前にもそうしてい たように、ミレイユは全ての電子メールを消去していた。だが もう、ミレイユは以前のような生き方に戻るつもりはなかった。 もう、二度と。 そして、霧香もきっとそうだろう、とミレイユは確信してい た。今まで定期的に請け負ってきた仕事について、ミレイユは 霧香には話さなかったし、知らせない方がこの少女のためだと 考えていた。自分と霧香との満ち足りた平和な世界を乱すよう な生き方なんか、ミレイユにはごめんだった。 だが、二人には常に、暗い影が覆っている。ミレイユはそれ を忘れようと最善を尽くしたが、できなかった。アパルトマン から外出する時にはやはり愛用のワルサーP99を手放せない。 恨みにとらわれた過去の記憶が自分を追いつめていることに、 ミレイユは自覚できていなかった。この仕事に関わってしまっ た者は、永遠に気を抜けないのだ。 だが、ミレイユは霧香を今までのように暴力に満ちた世界に 晒すことだけはしたくなかった。今の霧香は、殺人技なんか知 らない普通の少女と同じように、幸せの中にいる。霧香自身が 人間凶器であるとはいえ、以前失った銃の代わりなど持たず、 外出の時も火器なんか持って歩いたりしていない。 しかし、ミレイユは自分か知り尽くし愛しているこの寡黙で 内気な少女の内側に、別の人格が…どす黒く、残酷な少女が潜 んでいることも知っている。ミレイユはできることなら、霧香 のそんな冷酷なペルソナに再び顔を出してほしくなかった。 だが、ミレイユが怖れるその日はきっと来る。霧香の手に再 び銃が握られる日が。それは避けられない。二人のたどってき た道は血と死に充ち満ちている。どこにも真の逃げ場はないの だ。自分たちが死ぬ以外に。 でもミレイユは、その恐るべき日の到来をできる限り遅らせ、 自分と霧香の至福の時を維持するために全力を傾けようと思っ た。それまでは、この喜びの毎日を、今日が最後という気持ち で大事にしていこうと思っていた。 *** コンピュータで最近の世界のニュースをインターネット経由 で読んでいたミレイユの耳に、霧香がバスルームから出てくる のが聞こえた。そしてワードローブの扉が開かれ、黒髪の少女 が服を着るのが聞こえる。 ミレイユはインターネットを切断し、コンピュータをシャッ トダウンした。ミレイユは主室とベッドルームを仕切る黒い壁 越しに霧香をこっそり覗いて、その後で霧香がどんな反応を示 すか(何に着替えたかは気にしない)見てみたい誘惑にかられ た。…だが正直なところ、おそらくは大したリアクションは見 せてくれないだろうけれど。 ほっと息をついてミレイユは椅子にもたれかかり、両手を頭 の後ろに組んで、隣の部屋から漏れてくる衣擦れの音を聞いた。 ミレイユは霧香よりずっと先にシャワーを浴びて着替えてし まっていた。寡黙な少女はずっと掃除や朝食の後かたづけにか かりっきりだったのだ。 ミレイユは少し後ろめたかった。二人の関係の本質が変化す る以前から、ミレイユはしばしば霧香に買い物袋を運ばせたり といった些細な家事を押しつけがちだった。状況の変わった今 になっても、ミレイユは相変わらずで霧香にアパルトマンの雑 事をやらせてしまっていた。 かつてのミレイユは霧香をあたかも、自分がやりたくないこ とをやらせる「召使い」か何かのように見なしてしまっていた。 二人が恋愛関係に陥ってからはそんな姿勢を正そうとしてはき たが、それはなかなかたやすいことではなかった。とはいえ、 自分だって料理はちゃんとやっている、と自己弁護するミレイ ユ。もちろんそれは以前と同じことにすぎず、…相変わらず、 である。 「ミレイユ」 霧香の声がすぐ目の前から聞こえてきた。 「あ、えっ?」 ハッとして起き直ったミレイユがパートナーを見上げた。そ してすぐに、愛おしげにニッコリ笑いながらプールテーブルに 肘をつき、両手の指を組んでその上にあごを乗せた。 「うわあ、今日はすごく可愛いじゃないの」 霧香が選んだ服に感心しながらミレイユは言った。 霧香が着ていたのは赤と白の横縞柄のVネックのTシャツと、 膝上までしかないライトブラウンのミニスカートだった。 この服が少し前に買ってあげたものだったことを、ミレイユ は思い出した。 二人がパリに戻って2週間ほど経った頃、ミレイユは奮発し て霧香に新品のワードローブと、帰ってくるまでに無くしてし まった服の代わり、プラス新しい服をごっそり買ってやったの だった。 ミレイユは多少霧香の希望にも配慮はしたが、少女はミレイ ユの見立てがお気に入りのようだった。…それに優しい霧香は 金髪の美女に、自分をモデルにしてドレスアップさせる楽しみ を許していたのだ。 誉め言葉にはにかみながらうつむく霧香だったが、顔にはは っきり嬉しそうな微笑が浮かんでいる。 「ミレイユ」 霧香が言った。 「今日は、ミレイユを絵に描きたいんだけど」 「え?」 びっくりしたようにミレイユが言った。 「私を?」 ニッコリ笑って椅子から立ち上がったミレイユは、本音とは 逆にやれやれといった溜息をついた。ミレイユは誘惑するよう に真っ赤なノースリーブのシャツの下に手を当てて、お腹を露 わにする。 「それって、私に服を脱げっていうこと?」 ミレイユはいやいやのふりで舌打ちする。 「でも、芸術のためなら…」 ミレイユの手が、はいていた色っぽい流行のお尻にぴったり の青いショーツの一番上のボタンにかかり、今にもボタンを外 して脱ぎ出そうとする。 それを目にして目をパチクリさせた霧香が、大あわてで首を 横に振った。 「ちがうの」 その叫びも小さな声だったが、霧香がかなりショックを受け たのはよく伝わってきた。 「服は、脱がなくていいの」 「ええ?がっかりだなあ」 つまらなそうな声で言いながら、ミレイユは腰に手をつけて、 残念という表情のお手本を見せた。 「それじゃこの次はきっと…」 「公園に行って、外でミレイユを描きたいの」 ブロンドのパートナーの冗談を無視して、霧香が説明した。 太陽の降りそそぐ外を霧香が一瞥する。 「こんなにいい天気だから…」 ミレイユの視線は、隣のベッドルームとの仕切りになってい る黒い壁に飾られたたくさんの絵に向けられていた。いくつか は風景画だったが、大多数はさまざまなポーズをとったミレイ ユを描いたものだった。その肖像画のほとんどで、ミレイユは それらしい姿で描かれていたが、同時にずいぶん悲しげだった。 ミレイユ自身は深く考えてはいなかったが。 パリに戻ってまもなく、ミレイユは霧香に何か趣味を持つよ うに勧めた。霧香からは幼年時代のほとんどが奪われてしまっ ていた。広範な暗殺の訓練に明け暮れていて、普通の少女らし い日々を占める活動の余地などほとんど無かったはずなのだ。 そんなのはあまりにも寂しすぎる、とミレイユは思った。 霧香を再び学校に復学させようか、この愛しいパートナーに 学業を全うさせて明らかに欠落している一般常識を身につけさ せようか、ともミレイユは考えた。だが熟慮の末に、そうする ことは止めた。闇の世界から霧香をある程度守れるような身元 をミレイユが偽造してやらなくてはならないし、そうなれば学 校に戻る不利益の方が利点よりも勝ってしまう。 霧香はおそらく日本に帰国して学校をちゃんと出たいと思っ ているのだろうが、そうなるとミレイユも霧香と一緒にフラン スを離れることを意味する。となれば言うまでもなく、霧香が 学校に行っている間、ミレイユはずっとひとりぼっちで過ごさ なくてはならない。それに、ミレイユだって霧香が知りたいこ とを必要な時に教えてやるくらいのことはできる。 ずいぶん薄弱な理屈だと自分でも思ったが、ミレイユはパー トナーを学校に行かせることは止めにした。 その代わりとして、ミレイユは霧香にまた絵を描くことを勧 めた。 最初こそミレイユにはためらいがあった。霧香にはその趣味 はイヤな記憶と繋がっていたからなのだが、結局、黒髪の少女 は自分の希望通りにした。 初めのうちはゆっくりした歩みだった。過去の出来事にとら われていたせいだろう、霧香は熱中してはいなかった。だがミ レイユが絵のモデルになってやるようになると、霧香は熱心に 取り組むようになった。 ちょっとしたレベルの画家になった霧香に、ミレイユは目を 細めた。いかにも幸せそうになった霧香からは、その背後に汚 れた過去を背負っているどころか、ただの寡黙で内向的な少女 にしか見えなかった。 振り返ったミレイユが窓越しにまぶしい晴れた空を見上げた。 ミレイユは微笑むと、霧香に視線を戻す。 「いいわ。それじゃさっそく、公園に行きましょ」 そう言ったミレイユの微笑みが、霧香の明るい表情をさらに 朗らかにした。 「でも、もっと楽しくしたいな。ピクニックとしゃれ込みまし ょう」 大きく頷いた霧香が、ミレイユの瞳を見つめながら嬉しそう な声をあげた。ミレイユは霧香の褐色の宝珠の瞳に輝くような 愛情と慕情をハッキリ見てとった。かつてはこの愛らしい少女 が石のように冷酷な存在だったなどとは、とても信じられない ほどだった。 プールテーブルをぐるっと回って霧香に近づき、肩に手を回 して顔を寄せるミレイユ。 「それじゃ、霧香は絵の道具を準備して。私はお弁当を作るか ら」 楽しげなウィンクを投げかけてミレイユが言う。 霧香の甲高い返事に、ミレイユはニッコリ笑って頬にそっと キスした。 「いい娘ね」 霧香から手を離して、お尻をぽんと叩いてミレイユが急きた てると、少女は駆けだして絵の道具を取りに行った。大はしゃ ぎで絵の道具を置いてある窓際に飛んでいき、持っていくもの を選び出していく霧香に、甘いミレイユは笑うばかり。パリに 戻ってきてからは、まるで今日という日がずっと以前からそう だったようにさえ思えた。そして、喜びと平和に満ちた日だっ たようにも。 ミレイユには、何の不満もなかった。ありがたいくらいだっ た。 「ミレイユ、ピクニックなんでしょ」 ぼんやりしていたミレイユは、霧香の声ではっと我に返った。 「そ、そうそう」 ちょっと空元気でミレイユが答えた。 「その前にちょっと…」 ミレイユはベッドルームに入っていき、カウチに置いてあっ たハンドバッグを手にとった。慎重に、というより不安そうな 顔で霧香の様子を窺い、少女が絵の道具を選び出すのにすっか り夢中になっているのを確認すると、ミレイユは新品のベッド に近寄ってその脇に屈み込んだ。 ベッドの下に手を伸ばしマットレスの台座を探ったミレイユ の手に、冷たい金属の感触。もう一度霧香の様子を肩越しに一 瞥してから、ミレイユはベッドの下から自分の銃を取りだした。 ベッドの上にハンドバッグを置いてから、ミレイユはできる だけ物音を立てないように装填してあった弾倉を抜いて弾丸を 確認した。弾倉にはパラベラム軍用弾がフル装填されているし、 薬室にも一発すでに入っている。 問題なし。 ミレイユは弾倉を銃に挿入すると、ハンドバッグの中に入れ た。 「ミレイユ」 向こうの部屋から霧香の声が聞こえた。 「ああ、いま行くわ」 返事をするミレイユ。ハンドバッグは霧香と出かける時に持 っていくことにして、いったんカウチに戻すと、ミレイユはキ ッチンに移っていった。 *** アパルトマンからそれほど離れていない公園で、ミレイユは 仰向けに横になりながら青い瞳を半開きにしてうたた寝してい た。脚を組み、頭の後ろに手を組んで、緑の芝生の斜面に寝転 がったミレイユの長い金髪が扇のように広がっていた。 霧香はもちろんその横に座って、膝の上にスケッチブックを 置き、絵の道具をわきにして、筆を手にしている。お弁当はも うほとんど早めにいただいてしまったので、残りはバスケット の中に入れて足元にしまってある。 ミレイユのハンドバッグは、霧香とは反対側のそばに置いて あった。 ミレイユは手を伸ばして黒のストッキングを直すと、また頭 の後ろに手を戻した。そしてチラッと恋人を見やる。 霧香はお弁当を食べ終えてからずっとこの調子で、絵を描く のに没頭している。時折ミレイユを鋭い目で一瞬かそこらじっ と見つめ、そしてまた絵を描くことに戻る。 他人はどう思うかわからないが、少女がすっかり集中してい ることがミレイユにはよくわかる。一見すれば霧香はいつも通 りにリラックスした様子で、のんびり悠長に筆を滑らせている。 だがミレイユははっきり、恋人の愛くるしい瞳から霧香が作 業に没頭していることを悟っていた。この無口な少女がどんな 気持ちなのか、ミレイユは霧香の瞳から推し量ることがしばし ばだった。 ミレイユの全身の隅々までも観察する黒髪のアマチュア画家 少女に、ミレイユは目を合わせようとしたが、全くうまくいか なかった。あんまりにも霧香が熱心にミレイユを観察している ので、ミレイユの苦心にも気がつかないのだ。 こんなに熱中して自分を見てるくせに、霧香ったらどこを見 てるのかしら、とミレイユはよくとまどう。 霧香がちょっと見上げるような視線で自分を見ることに、ミ レイユは気づいていた。 ただの「仕事上の相棒」と同じか、それに毛の生えた程度の 「先生」として、霧香は私を見てるのかしら?それとももしか したら「お姉さん」?…。 ミレイユは霧香にとって唯一の家族のはず。そしてミレイユ 自身にとってもこの少女は唯一の家族なのに。それともやっぱ り霧香にとって自分は「友達」でしかないのだろうか。それと も「恋人」として心を捧げてくれる唯一の存在として見てくれ ているのだろうか? ミレイユにはわからなかったが、その五つ全部の存在として 霧香は見てくれているんだろう、と信じた。 この黒髪の少女の人生の中で唯一、おそらくただ一人、死な ずにいるのは自分だけ。そして、霧香もミレイユの人生の中で 同じように唯一の大切な存在。 ミレイユにも友達はいたが、それは正確に言えばむしろ「つ きあい」くらいのものだった。連中はただミレイユの金目当て だったのだ。 まるで世界で重要なのは貴女だけ、みたいに霧香から見上げ られるように見られることに、ミレイユは最初は不安を感じた し、今もいくぶんそう感じている。責任を負わされるのはあま り心地よくはないものだ。自分が何かまずいことをしたり、う っかり霧香を傷つけるようなことを言って少女の心を打ち砕い てしまわないか心配にもなる。 だが、誰かにとって自分が「不可欠な存在」だと思われるこ ともなかなか悪くない。ミレイユには自分が霧香からそう思わ れているという自信に満ちているし、言わせてもらえばそれは 同じようにいくぶん誇らしかった。 そう考えると自分が特別のような気になってくる。そして、 今までの人生で犯してしまった罪にもかかわらず、自分が賞賛 され、そして…愛されるに値する存在として見てもらえる、そ のことがとりわけミレイユの心を温め、癒してくれた。 スケッチブックに視線を戻した霧香に、金髪の美女は思わず 吹き出した。霧香はミレイユを絵のモデルとしてしか見ていな いかのようだった。そんな様子にククっと苦笑したミレイユに、 恋人はまた不思議そうな目をミレイユにまた向けた。 今度は視線が合った。 両手を頭の下にしたままミレイユが首を振った。 「なんでもないわ」 笑い出しそうなのをこらえて言うミレイユ。 ミレイユをまじまじと見つめてから、霧香はまた絵に戻った。 時間が経つにつれ、周りの木々の鳥のさえずりに、公園の人 々のざわめきに、ミレイユはあてもなく心を遊ばせているうち に、だんだんまぶたが重くなっていくのを感じた。 全身に降りそそぐ陽光の心地よい温もりばかりを強く感じて いくうちに、ミレイユの目は完全に閉じ、すっかり眠くなって いた。 だって、昨日の夜はほとんど寝られなかったんだもの…。 途切れがちな意識に、ミレイユの顔には微かに笑みが浮かん だ。 *** 自分の名前を呼ぶ優しい声と、そっとお腹をさする温かな感 触に、ミレイユは静かに目を覚ました。ゆっくり目を開くと、 霧香の愛くるしい顔がほんの目と鼻の先に、少女の黒髪が今に も頬に触れそうなほどの近くで迎えてくれた。 「ねえ霧香」 ミレイユが優しく言う。 「こういう時はキスで起こしてくれるものよ。眠れる森の美女 みたいに」 「『眠れる森の美女』って何?」 ミレイユのみぞおちあたりを指先で撫で続けたまま、霧香は きょとんとして訊き返した。 「長い間眠り続けていたお姫さまを、王子さまがキスで起こし てくれたってお話」 辛抱して説明するミレイユ。 「だから、眠っている恋人をキスで起こしてあげるっていうの はお約束なのよ。わかった?」 物わかり良く頷いた霧香が、ミレイユが驚く暇もなく、いき なり顔を寄せてきて美しい恋人の唇を自分の唇で捕らえるや、 強烈に深く愛おしげな口づけをパートナーと交わした。 しばらくしてやっと霧香はその濃厚なキスをやめると、何か 期待するかのようにミレイユを見つめた。 「こんなふうに?」 訊く霧香。 「そ…そうよ…」 切れ切れの息の下、そう答えるとミレイユは、唇を舐めて残 っていた恋人の味を堪能する。 「でもこうしてもらうためには私、眠ってなきゃならないわね。 イヤじゃないけど…」 「次は上手くやるから」 金髪の恋人に、霧香が確約した。 「うふふ、勉強熱心ね」 そう言いながら起き直ったミレイユは、これから毎朝ずっと 霧香のキスで目を覚ますことになりそう、という予想にすっか り嬉しくなって、こぼれる笑みを抑えられない。 「絵はもう出来上がったの?」 ふとミレイユが尋ねる。 「うん」 頷いた霧香は、ミレイユに背を向けて隣に置いてあったスケ ッチブックを手にとると、完成したポートレートをいかにも嬉 しそうに、期待と不安の入り混じったような顔で披露した。 想像通り、描かれていたのは、芝生の斜面にしどけない姿で 寝ころんでいるミレイユの姿だった。木々と、雲一つ無い青空 を背景にして、穏やかな空気に満ちている。 前もってスケッチすることをあえてやらないという霧香独特 の画法で、複数の色彩が互いに混じり合っている。 ミレイユの目からは、傑作だった。家に戻ってあの壁に飾っ てある自分の肖像画コレクションに追加するにふさわしい作品 だった。 「すごく印象的だわ」 才能を芽吹かせた幼い芸術家を賞賛しながら、ミレイユは絵 を鑑賞し続けていた。 「前に私を描いてくれた時よりも、ずっと上手くなってるわね」 霧香を見つめて、ミレイユは励ますように微笑んだ。 「とてもステキよ」 ミレイユの評価に身震いさえしながら、霧香はすっかり嬉し くなって笑った。 「ありがとう」 はにかみながら霧香は、金髪の恋人を熱っぽく見つめて言っ た。 スケッチブックを膝の上に置き、ミレイユは愛おしそうに霧 香の髪を手でくしゃくしゃにすると、少女の得意げな笑顔がさ らに広がった。ミレイユが霧香の芸術的な成果やその他の理由 で誉めてくれると、霧香はいつも信じられないくらいに大喜び する。それはまるでミレイユの意見だけが肝心で、他の人がど う思おうが全くかまわない、というかのようだった。 そして今までのミレイユの賞賛全ては心からのものであり、 実際ミレイユはおそらくいつだって少女の求めるとおりにパー トナーを誉め続けるだろう。ミレイユの方も、鈍感で粗雑な言 葉に対しては、霧香の心が受けるダメージが大きいことを感じ とっている。 「ね、今夜は外食しようか?」 ふと思いついてミレイユが訊いてみた。 「私の買ってあげた服を着て…」 霧香のためと言うより自分のほうが楽しみといった様子で、 誘うように付け加えるミレイユ。この愛くるしい少女がドレス アップした姿をミレイユは見たくてたまらなかった。 「いいよ」 霧香がすぐに同意した。 パートナーの頭に手を置いて、顔を寄せると、ミレイユは霧 香の額にチュッとキスした。 と同時に、ミレイユはもう片手で自分の脇に手を伸ばした。 革製の、中に硬い金属製の物体を納めたものに。ハンドバッグ に。 ミレイユの表情が少し曇ったことに、霧香が不審そうに見上 げた。だが金髪の美女はすぐさま無口な少女を元気づけるよう に笑いかけたので、霧香も安心したように愛らしく微笑みを返 した。 世界はまだ、平和だった。 *** 「ね、美味しかったわね」 今しがた堪能したディナーに満足げに、ミレイユが隣の霧香 に言った。 「あのロブスター、最高だったわ」 アパルトマンまでの短い帰り道を、二人は歩いている。 二人の行きつけのレストランはそんなに家から離れていない ので、ミレイユと霧香は普段、タクシーを拾うよりは徒歩で通 うようにしている。もうずいぶん時間が遅くなって、二人が食 事を終えた頃にはすっかり夜も更けていた。古い石畳の通りは、 黒光りする鋳鉄製の街路灯が放つ琥珀色の光に照らされていて、 ミレイユと霧香が通り過ぎる暗い路地からは、まるで二人を闇 の中に取り込もうとするかのように不吉な影がさしていた。 夜空は澄んでいたが、月は大きく欠け、眼下の世界を青ざめ た光で照らしていた。 「デザートのケーキがよかった」 霧香が言った。 「あの苺のトルテ」 大きく頷いて同意するミレイユ。 「そうね、あれも良かったわ」 ミレイユは左に視線を送る。パートナーが寄り添って歩いて いる。ミレイユが着てみてちょうだいと言ったドレスに身を包 んだ霧香に、ミレイユはただただ見惚れていた。少女にはロイ ヤルブルーがよく似合った。 この色の服をもっと買ってあげなくちゃ。 ふと霧香から視線を外したミレイユの左手に、かつて馴染ん でいたあの「死の重み」が甦った。しっかりと身につけていた ハンドバッグはいつもずっしりと重い。そして、過去を呼び覚 ます。 平和ははかなく、喜びは永遠には続かない、ということを。 静かな足音に、女暗殺者の顔がキッと引き締まり、自分と霧 香の足音もまた耳に響く。 ミレイユと霧香の後ろの男が、レストランを出て以来ずっと つけているのだ。 チラッと後ろを見やったミレイユだったが、それは心を乱す には十分だった。男は何の特徴もなく、雑踏の中なら埋没しそ うな人物だった。普通なら気を止めたり、注意を引いたりもし ないだろう。まるっきり普通の人間だった。それがかえってミ レイユの本能を最高水準にまで警戒状態にしていた。 「ミレイユ?」 顔色と取り巻く空気が変わったことに気が付き、金髪の恋人 を訝しげに見ながら、霧香が訊く。 「え?」 霧香に顔を向けてミレイユが言った。 「なんでもないわ」 黒髪の少女に微かに不安の色が浮かぶのを見て、強いて明る い調子の声で陽気に笑いながらミレイユが安心させる。 コクンと頷いた霧香だったが、すっかり納得した様子ではな かった。 もう家は近い。二人の歩いている脇道は、二人のアパルトマ ンの建物に続いていて、もう視界の中、あと十数メートルあま りである。 安全地帯を目にして、ミレイユの歩幅が少し大きくなり、霧 香もそれにぴったり合わせる。 二人の背後の足音が、二人の歩調に合わせて早まった。 不安に、ミレイユがごくりと息を呑む。 すぐに追いつかれる…! ミレイユは確信した。 ミレイユと霧香がアパルトマンの建物のある路地に曲がって 入っていくのにまだ数秒ある。だがミレイユは足を早めた。パ リに戻ってからずっと、ミレイユは長いこと、この瞬間に対す る心構えをしてきた。 突然、男が足を速め、駆け足になった。そしてほんの一瞬の 後に、全速力で駆け出した。 気を抜いていたミレイユの鼓動が早まった。男はこっちが道 を曲がるのを待たなかったのだ。 女暗殺者は急に足を停めると、電光石火でハンドバッグに手 を突っこみ、迫る敵にすばやく半分顔を向け、同時に銃を引き 抜こうとした。 その動作の中、ミレイユの顔には霧香とその平和な世界を護 ろうとする決意がありありと浮かんでいた。 だが…もう遅い。 もう、平和な刻は終わり。 だが、正体不明の男は何事もなくミレイユのわきをすり抜け、 きょとんとした美女をあとに残して行ってしまった。 振り返ったミレイユの目に見えたのは、前の方の縁石から発 進しようとしたタクシーを呼び止めようとして、大きく手を振 って運転手に気づかせようとしている男の姿だった。 タクシーが停まり、大あわてだった男が中に入るやホッとし て、そして車が発進していく様子に、ミレイユは目を白黒させ るばかりだった。 心臓の鼓動もだんだん落ち着き、息づかいも和らいでいった。 なんだ、気のせいか…。 不安と、そこから来る想像のせいで、勘違いしていただけだ った…。 ミレイユはゆっくりと霧香に視線を向けた。 少女はいつもと同じように平静で、全く慌てた様子もなかっ た。その瞳が、ミレイユが右手に持っているピンクと白の縞模 様の半分開きかかったハンドバッグに視線を移した。霧香の視 線につられて、ミレイユも下を見る。バッグの中から、鈍く灰 色に光る金属製の物体が、ミレイユの手に握られているのが垣 間見えた。 銃座の感触の冷たさが、金髪の美女の手にはまるで凍りつく ように思えた。そしてあたかも手の骨の髄まで染み込むように 感じられた。 顔を上げたミレイユは、全てを知った霧香の目を見つめた。 霧香は知った。いや、当然わかっていたのだ。 霧香の感覚と戦闘能力は、ミレイユを上回っているのだ。 …ミレイユが背後の男の存在に気づいた時には、間違いなく パートナーも同じように気づいていたはずなのだ。そしてミレ イユの能力は霧香には及ばない。今でこそ平穏な生活の中にい るとは言え、少女の能力は以前のとおり鋭敏なままなのだ。 その事をミレイユは忘れるべきではなかった。だが男が二人 を「つけている」のではないことなど、霧香はとっくに気づい ていたのだ。 ミレイユは、霧香が「全てわかっていた」ことを思い知らさ れた。 「さ」 頭に血がのぼった状態で、ミレイユが言った。 「もう家に着くわ」 まるで何事もなかったかのように、ミレイユはまた歩き出し た。まるで今起きたことを全て無視すれば、自分たちの静かで 穏やかな世界をかき乱されないですむかのように。 少なくとも表面的にはそう見えた。 だがそれで自分には十分だったし、霧香にもきっとそれでか まわないだろうと、ミレイユは信じていた。 ちょっとためらってから、霧香は無言のままミレイユに駆け 寄った。 *** たまにパジャマ代わりにしているゆったりしたシャツ姿のミ レイユは、ベッドルームへのステップの一番上から、窓枠に手 をついてアパルトマンのメインルームに広がる闇の中に立つ霧 香を見つめていた。 黒髪の少女はすでに服を着替え、今はいつもの寝る時の恰好 で、開いた窓からじっと外を眺めるばかりだが、何を見ている のかはミレイユにはわからなかった。だがそれは霧香がしばし ばとる行動だった。 二人が初めて出会った頃にも、このパートナーがいつもこう していたのを、金髪の美女は思い出していた。窓の外に見える もの全てにすっかり心を奪われているかのように、ミレイユが 後ろから近づいてきてその細身の身体を腕の中に抱きかかえて も、霧香は身じろぎもしなかった。 霧香の頬に顔を寄せて、ミレイユは目を閉じ、深く息を吸っ て小柄な少女の髪の甘い香りを吸い込んだ。ミレイユの手が霧 香の全身をまさぐりだした。最初はそっと穏やかに、しかしだ んだん、だんだんと濃密に。 霧香のライトブルーの上着の下に左手が滑り込み、滑らかで 張りのある肉を愛撫し、少女の肌の流れるようなつやをなぞっ ていく。ミレイユの指は自然と霧香の左脇腹に向かう。 そこにはまだ銃創のあとが残っているのを知っている。 それは聖痕、そして、ミレイユにとっては唯一無二の恋人が どれだけ自分を愛し、どれだけ自分を想ってくれていたかを示 す証し。 ミレイユの指は霧香の上着の下の聖痕をじっくりと、輪を描 くように繊細に愛撫してから、華奢な少女の身体の他の場所に と移っていった。 一方、それまで動かなかったミレイユの右手が、霧香のショ ーツのウェストから滑り込んだが、ちょっと中に入ったところ で停まる。そしてミレイユは顔を近づけてパートナーの首筋に そっとキスの雨を降らせ、唇の触れた場所をそっと吸った。 霧香が抑えきれずに喘ぐ声を耳にしてミレイユは笑みを漏ら し、さらに唇で悦びの奉仕を捧げた。 ミレイユの左手が滑って霧香のお腹に沿って上にあがり、小 振りだが形のいい乳房にたどりついた。しなやかなふくらみを そっと手で包み込むようにすると、ミレイユの手に見事なほど ぴったりにおさまった。 優しく乳房を揉みしだくミレイユの耳に、霧香の息づかいが だんだんゆっくりになり、そして手の動きに合わせて深くなっ ていくのが聞こえた。 ミレイユの右手がやっと霧香のショーツの奥の方に入り込ん でいき、絹のように滑らかな少女の恥丘にたどりついた。霧香 の秘所のほんの上にあるその一帯を指でこねくり、激しくこす り、ぎゅっと押し込む。 霧香は呻きながらがくんと膝を折り、もう立っていられなく なってきたかのように、ミレイユに背中を押しつけた。 焦らすように小柄なパートナーの鎖骨のくぼみに微笑するミ レイユが、その青い瞳の視線を落とし、自分の手が少女のショ ーツの中に入り込んで恥丘を淫猥に愛撫するのを目にすると、 ミレイユの笑顔は淫らな色を帯びてきた。 たちまち霧香は、明らかに立っていられなくなっていた。 霧香がすっかり出来上がってしまったと見て、ミレイユは右 手の動きを止め、少女のショーツのもっと奥にとまさぐってい った。そして長くて細い中指を、霧香の内陰唇の襞を…とりわ け過敏な部分をかすりすらしないように、注意深く…かき分け ていった。 そしてそこがすっかり濡れているのを感じた。 ああん、霧香ったらもう、すっかり…。 すっかり熱くなった霧香の陰唇のまわりに指を当てたまま、 ミレイユは黒髪の少女の乳房を揉みしだきつつも、焦らすよう にその頂点を飾っているしこった蕾を避けた。 霧香の陰門への入り口近くに当てた指は、時々秘裂に向かっ て入り込み、ますます濡れてきている部分を弄ぶ。 悶えるばかりの、…そして強烈に刺激してくるミレイユの玩 弄に、霧香は首をのけぞらせ、ギュッと目を閉じ、こらえきれ ずに喉の奥から小さな喘ぎ声を漏らした。 美味しそうに熟れた果実のように濡れた秘所の奥に、それま で周囲を踊っていた指を深く挿入してあげたいという衝動を我 慢して、ミレイユは淫靡な愛撫を中断すると、霧香の可愛い耳 たぶに唇を寄せた。 「窓を閉めて、ベッドに行きましょうね」 小柄な少女に淫蕩な声で囁いたその声は、やっと聞き取れる 程度だったが、愛しい少女には完璧に聞こえて伝わるだろうと いう確信があった。 ハッとして目を見開いた霧香は、ミレイユの腕の中で身を起 こし、手を伸ばして窓を閉めて鍵をかけた。霧香の上着の下か ら手を引き抜き、ミレイユは少女の顔を自分の方に向けた。 金髪の美女は最初に、恋人の愛液に濡れた指を自分の口に含 み、昂ぶった青い瞳で霧香の褐色の目をじっと見つめたまま、 ゆっくり時間をかけて誘うようにきれいに舐めとってから、優 しくパートナーの手をとって、灯りの点いていないベッドルー ムにそっと導いていった。 ミレイユはまずはベッドの上に座ると、手を軽く握ったまま、 霧香を向かい合うようにさせた。これからの期待に舌なめずり したミレイユに、霧香は素直に従ってベッドに上がり、ちょっ と両脚を開き気味にして膝立ちになった。 恋人に手を伸ばし、そっと霧香の頬に当てると、ミレイユは 親指を使って軽く揉んだ。 霧香は目を閉じ、金髪の恋人の手に押しつけるように顔を寄 せ、そして満たされたような溜息をついた。 ミレイユの親指はやがて黒髪の少女の唇にたどりつき、ゆっ くりと、鳥の羽のようにそっと輪郭をなぞった。 しばらくして、優しい愛撫は終わり、ミレイユは霧香の頭の 後ろに手を当てて引き寄せた。一瞬目を開けた霧香だったが、 ミレイユの唇が近づいてくるのを目の当たりにすると、すぐに また目を閉じた。そしてミレイユの唇が開いて、自分の唇にそ っと優しい口づけをくれた。 しかしその口づけは、たちまちますます燃え上がり、ミレイ ユの舌が霧香の熱い…そしてだんだんと心をとろかすような口 の中に、至上の悦びを求めて挑んできたのだ。 数分後、ミレイユの唇が霧香からやっと離れ、開いた目がパ ートナーの視線と合った。恋人たちはいくぶん喘ぎ、息づかい を荒く早めていた。 霧香はミレイユの目をじっと見つめ、何も言わずにミレイユ の合図を待った。ミレイユは黙ったままベッドルームの闇の中 で霧香を見つめ返すだけだったが、その青い瞳は雄弁だった。 数秒のあと、はっと目を瞬かせた霧香は、金髪の恋人の白いシ ャツに目を落とし、ゆっくりと上から順番にボタンを外し始め た。 霧香の指が手際よく、自分が着ている唯一のものであるシャ ツのボタンを外していくのを見つめるミレイユ。やがてパート ナーの視界には、ミレイユの豊満で甘美な乳房が露わになった。 霧香の心が情欲にとらわれてしまったのが、はっきりわかる。 かつて、ミレイユはこの幼げな少女にこんなことをさせてし まうことをひどく後ろめたく思っていた。…そして自分自身も 霧香に対してこんなことをしてしまうことにも。 やがて二人の恋情がだんだんと花を開きはじめ、二人の関係 がますます肉体的にも近いものになっていったあとも、不安は 消えなかった。 すでに大半の無垢なる部分を失ってはいたとはいえ、わずか でも霧香に残されていた純潔を奪う権利が自分なんかにあるの かどうか、ミレイユには確信が持てなかったのだ。 黒髪の少女はまだ高校生の年頃で、金髪の美女の成熟した年 齢に比べたら、あまりに幼かったし、ミレイユが心配すること でもないだろうが、霧香はセックスのことについてはまるで無 知だった。 アルテナやその配下たちは、この娘に性交や生殖のしくみに ついて論じるのを、少女の義務教育の多くの方面同様に、避け たのは明らかだった。そして、ありがたいことではあるが、ク ロエが霧香と一緒にいた間に、「継承」の儀式で霧香の失われ た知識を甦らせようとした時も、それは行われなかった。 …あのナイフ投げの達人だったライバルの少女が、愛しいパ ートナーのファーストキスを奪ってしまっていたと知った時、 ミレイユは猛烈に怒ったし、相当落胆もした。…そして今でも。 しかし一方では、自分を殺そうとまでしたソルダの暗殺者だ ったとはいえ、ミレイユは今は亡きクロエのことを本気で嫌い にはなれないのも確かだった。 セックスに無知な霧香に、ミレイユは心許なさを感じたけれ ど、にもかかわらず一方では、自分が霧香に女の子同士で愛し あうことの全てを教えてあげられるということに、心を躍らせ てしまってもいた。 自分が直面していた複雑な状況を考え抜いた結果、ミレイユ はとうとう霧香と互いに、肉体的に、何の遮るものなく、愛し あうことを決心した。自分たちの関係に何か欠けているのか、 おそらく霧香は悟ってくれるだろう、そして最後には二人で何 のこだわりもなく一緒に眠ることができるだろう、とミレイユ は思ったのだ。 そして不本意ながらもミレイユは、自分がずっとこの愛らし いパートナーと愛しあいたいという欲望を抱いていたことを、 そしてそれはもうこれ以上我慢できないものになっていること を、自ら認めた。 その結果、自分が汚らわしい年下少女趣味の女だと見なされ ても、それはしかたない。 でも自分だって霧香とそんなに年が離れているわけでもない んだけど…。 とにかくミレイユ自身はそう考えた。 ミレイユの考えが遮られたのは、霧香がいきなりミレイユの 乳房にしゃぶりついて、固くしこった乳首を舌でペロペロし て弄びだしたからだった。その間にも、少女の手は反対の乳房 をこすったり揉んだりし始めた。乳房の先の堅い蕾に愛おしげ な求愛をするたびに、その手の動きは何度も不規則に乱れる。 激しく息を呑んで、真っ暗な天井を見上げたミレイユに、霧 香は巧みに悦びをもたらした。恋人の少女は今度は、霧香のす ばらしい奉仕をねだっているような反対側の乳房に口を移動し ている。金髪の美女の乳房の乳輪を舌でしばらくなぞった後、 少女はもう痛いほどにしこった乳首を何度も舐め、とうとう突 き出たピンクの蕾を口に含みながら、さらにはしなやかな巨乳 を濡れた口の中いっぱいに頬張った。 ミレイユは大きく開いていた股間が濡れてくるのをジンジン 感じた。 ミレイユが先生役の、ためらいがちな、しかし悦びに満ちた 「授業」をたっぷり受講して、霧香はすっかり有能な恋人にな っていた。きっとこの寡黙な少女の方が自分よりも自分の身体 のことを知り尽くしているかもしれない、とミレイユは時々思 ってしまうほどだった。 どれくらいの時間が経ったのか、ミレイユにはわからなくな っていた。 自分の乳房への霧香の献身的な奉仕に、ミレイユの心は別の もっと気持ちいい、もっと大切なもののほうに気持ちが向かっ てしまった。 そしてとうとう、霧香がミレイユの乳房への至高の愛情表現 を中断すると、金髪の美女は上昇しっぱなしの脈拍を少しでも 落ち着けようと、意識して冷静な吐息を漏らした。ミレイユは 霧香の顔に手を当て、そのまま霧香の身体を下に押し下げると、 霧香は喜んでそっとキスの列を作りながら、すっかり濡れそぼ ったミレイユの股間にと向かっていった。 少女の舌がおずおずとミレイユの陰唇をぐるりと舐めたが、 最もして欲しい肝心の疼く場所をわざと外したせいで、ミレイ ユは息を詰めて霧香のショートヘアを指でかきむしった。 そして恋人がついに指を二本するりとミレイユを貫き、さら にはいきなり、容赦なく、膣奥の特別な部分をこねくると、ミ レイユは部屋中に視線を放ち、いま自分を襲っている強烈な快 感から逃れるよすがを求めたあげくに、何とベッドの右脇そば のカウチに置いてあったあのハンドバッグを掴んでいた。 今はバッグは空で、美女愛用のワルサーP99は安全のため にミレイユとその恋人の横たわるベッドの下に戻されていた。 だが今でも、こんな状態でも、それはミレイユと霧香の未来 に確実に訪れるものを思い起こさせずにはいられなかった。 暴力と、死が待つ未来を。 一瞬醒めて正気に返ってしまったミレイユのクリトリスに霧 香の舌が触れ、そして口に含んで少女がしゃぶり出し、金髪の 恋人が懇願していたものを与えたのだった。 目を閉じたミレイユは、左手を霧香の頭に当てて、いま顔を 埋ずめている自分の長い脚の間にずっと留めておこうとするか のように、パートナーの髪に指を絡ませた。 今は、未来に何が待っているかなんて気にするヒマはない。 今この時、私はここに、平和な世界に、心の底から一番愛し ている霧香と二人。 そして、せめて今だけであっても、それが大切なの。 霧香の巧みな舌と指の動きに我を忘れて、ミレイユの息づか いが激しくなり、心の中からは愛しい少女以外の全てが消えて いった。 もう、絶頂が近い。霧香が本気になって奉仕しようとしたら、 ミレイユはひとたまりもないのだ。 だが、それでもいい。ミレイユにとって、それは今夜最初の 絶頂にすぎない。 そう、数え切れないくらいの、ただの一回目…。 そして霧香も間違いなく、幸福以上のすばらしいものを与え てくれるミレイユの愛のこもった返礼を懇願しているのだ。 夜はまだ長い…。そして一日はまだ終わらない…。 *** ベッドの上に全裸で仰向けに横たわるミレイユの隣に、同じ ように生まれたままの姿の霧香。 二人はもう、飽きるほどに満たされていた。 …とりあえず、今夜のところは。 霧香に顔を向けたミレイユは、ぼんやりと天井を見上げたま まの少女の顔を見つめた。 もう夜もすっかり更けた。もう眠った方がいい。でも、まだ そんなのはムリ、とミレイユは思った。 恋人の視線を感じて、霧香が隣の美女に顔を向けて見つめた。 「ミレイユ」 そっと息をついて、囁くような霧香の声。 「あいしてる」 その言葉にニッコリ笑ったミレイユは、パートナーに腕を廻 して身体をぎゅっと抱き寄せた。 霧香は背の高いミレイユの身体にすり寄り、金髪の美女の首 筋に顔を預けた。 寡黙な少女が快適な体勢に身を置いたのを確認すると、ミレ イユはその額にそっと口づけした。 「私も、愛してるわ」 同じように囁くミレイユ。 今はもう、何のためらいもなく口をつくその言葉。自分がど れほど霧香のことを想っているか、二人がファーストキスを交 わしたあの日以来ずっと、ミレイユは絶対的な自信を抱いてい るのだから。 その告白に、霧香は微かに微笑んで、そして目を閉じ、美し いミレイユの腕の中に抱かれて、何の憂いもなく悦びに満たさ れて、眠りの海を漂いだした。 ミレイユは少女のショートヘアをそっと撫でて、愛しい少女 を深い眠りにいざなった。 二人を結ぶ糸は、今や深く濃く、真っ赤に染まって、そして もう永遠に切れることはない。 この平和な世界が決して永遠のものではないことを、ミレイ ユにはわかっていた。やがてはミレイユ自身も自分の意志で、 かつて自分が生きるために選んでしまった暗い道に、霧香と一 緒に戻っていってしまうか、それとも別の何かが待っているこ とも、ミレイユにはわかっていた。 だが、たとえ何が起きようとも、ミレイユと霧香はともにそ の道に立ち向かっていくだろう。二人はアルテナが願ったよう な存在としての「ノワール」ではないかもしれないが、しかし 二人は固く結びついていた。 何にも負けない、深い、愛に満ちた結びつき。 二人の絆は強まり、二人の魂は紅い糸に結ばれてぴったりと 繋がっているのだから。 二人の世界が遠くない未来に変容してしまうことにミレイユ は気づいてはいるが、二人がたどるはずの暗い道がミレイユの 目にはそんな真の闇には見えなくなっていた。 それはどこか赤みを帯びていた。 でも、その赤は血の色ではなく、二人の愛の色…。 しかし、とりあえず今は、世界はまだ至福に包まれ、平和な 穏やかさに満ちている。 その世界を、今は霧香と精一杯に味わっていたい、とミレイ ユは思った。 …運命の日が来る時まで。 完
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