赤と黒

第20話 砂時計

 

 霧香は畳の上で腹這いになっていた。華奢な身体を載せた畳
が心地よかった。黄色い夏服をほっそりした身体にまとわせ、
素足を床から浮かせて、まるで微風に揺られるかのようにゆっ
くりとぶらつかせている。服は薄地で、軽くて風通し良く、細
い身体に掛かるように肩のストラップで剥き出しの背中と胸元
から吊られている。
 こんな夏服は外の寒い天気には似つかわしくない。だが霧香
は気分爽快だった。居間はぽかぽかと暖かく、暖房が効いてあ
たかも夏の午後のような陽気になっていたのだった。

 霧香は顎の下で腕を組み、それを支えに顔をまっすぐ上げた。
その視線の先にはキッチンのテレビがあって楽に見ることがで
きた。口にくわえたパンの耳はぴょこぴょこ動いて、徐々に短
くなっていく。ハムチーズサンドの昼食でお腹いっぱいになっ
た後の、パンくずの残った皿の上で、唇に挟まれた端っこをも
ぐもぐさせていた。

 特に目を惹くようなテレビの番組はないが、それでも霧香に
とっては興味津々だった。日本に住んでいた時以来というわけ
ではないが、ずいぶん長い間、日本のテレビ番組はご無沙汰だ
った。だが違いと言ってもフランスの番組と変わり映えするわ
けでもない。出演者がアレコレいろんなことをやっているが、
霧香にはほとんど理解不能だった。告知されるさまざまなイベ
ント、新奇でわけのわからない有象無象、現実と区別のつかな
い茶番劇、親密な相手にすら鵜の目鷹の目で詮索に明け暮れる。
 テレビなんて役に立つこともあるけど、ほとんどはただのお
ふざけよ、とミレイユは霧香に言ったものだ。誰かの脳内で想
像された人物であるにせよ、他人の人生がどんなものか見たい
という気持ちを駆り立てるのだろう、自分自身のかつての人生
がまさに虚構そのものではあったけれど…と霧香は思った。こ
の、かつての我が家に帰還する以前の霧香は、こういう出歯亀
的な番組を長く見ていることができなかった。忘れてしまいた
いイヤな記憶が蘇ってくるからである。

 だが今はもうだいじょうぶ。見ていたテレビドラマのシナリ
オに自分の過去と似たシーンがあると思い出してしまうが、そ
のせいで記憶が不安を喚起するようなことはもうない。憎悪に
とらわれることも、切望に身を灼くこともない。
 霧香はその時、その生活を平穏と共にすごしていた。狩りか
らも解放されて。

 それどころか、今の霧香は自由にテレビを見ることができた。
現実と混同するほどのめり込んでいるわけではないが、ロマン
ティックなシチュエーションで演出されるカップルが出てくる
バラエティ番組がお気に入りだった。お互いの気持ちをどうや
って相手に対して表現するのか、その十人十色な様を見るのが
好きだった。その一方で、そんなカップルたちの想いを妨げる
障碍(たいていそれはカップルの片方に横恋慕する第三者)が
しばしば発生する。そんな顛末に霧香はハラハラさせられてし
まう。

 もし、わたしとミレイユがそんな状況に直面してしまったら、
いったいどうなっちゃうんだろうか。愛には、たくさんの障碍
が待ち構えているらしい。ミレイユにはいろいろな知り合いが
多いし、それも、わたしだって知らない人がきっといるはず。
もしミレイユがそのうちの誰かを好きだったら?わたしよりも
好きな人がいたら?

 だが、霧香には自信がある。わたしこそが、ミレイユに一番
近い存在なのだ、と。ミレイユは生活の全時間のほとんどをわ
たしと共に過ごしている(はず)。何と言っても、二人は相棒
なのだから。

 だがテレビ番組はといえば、そういう場面に第三者がしゃし
ゃり出て恋人のハートを横取りしようと虎視眈々と狙うという
可能性を完全に排除することは滅多にない。そういう不愉快な
場面になったらとっととチャンネルを変えるのが最善であると、
霧香は学んでいる。それに、霧香がもっとも関心がある「女性
同士の恋愛」をまともに取り上げるような番組なんて未だかつ
て見たこともない。男女の恋愛もけっこうではあるが、霧香が
真に求めるものが出てこない限りは、この番組も霧香の関心を
ずっとつなぎ止めておくことはできないのである。

 時々、霧香はニュース番組も見る。ミレイユがちょくちょく
見るので、霧香もミレイユに合わせて一緒に見る。もっとも自
分たちに関係のない世界で何が起ころうが霧香にはどうでもよ
くて、とにかく最愛の相棒と時間と行動を共有したいだけなの
だが。今の霧香にとって、世界とはこの慎ましい居間…ミレイ
ユと二人っきりのこの部屋だけが全世界だった。言わば、ミレ
イユが霧香と一緒にどこに行こうと、そこが霧香の全世界にな
るのだ。

 そんな霧香の世界に楽しげな鼻歌が平和の歌となって流れた。
その美しい音色はくつろいだ雰囲気にふさわしいBGMだった。
テレビのどんな音よりもずっと静かな低い音だったが、霧香の
耳には明瞭に聞こえた。霧香の心の平穏がその甘美な歌声とハ
ーモニーを奏でる。その歌声の主はいつだって霧香の魂を安ら
ぎに導いてくれる。その歌を聴けば、ミレイユもまた霧香に触
発されてハッピーになり、ラブラブモードに浸っていることが
すぐわかる。霧香は歌に関してはさっぱりわからないが、ブロ
ンド美女の鼻歌はあたかも霧香へのララバイで、聞いていると
けだるくまぶたが下がって、全身から力が抜け、頭の中の物思
いも静まってくる。ミレイユの傍らで丸くなって、大好きなそ
の青い瞳と滑らかな声に包まれてまどろむ自分を霧香は夢想し
た。

 そんな睡魔に必死に抗って、自分を無意識に充足感へと導い
てるとしか思えないミレイユに霧香は目を向けた。ミレイユは
霧香に向かってこたつの左側で、両膝を抱えて前屈みに座り、
ちょっと上に向けた素足を凝視しているのは、身繕いのため。
片手に小さめの瓶を持ったまま、反対の手にブラシ付きのキャ
ップを持って、足の爪にラベンダー色のペディキュアを丹念に
塗ることにミレイユは余念がない。ミレイユが足指の間にコッ
トンボールを挟んでいるのを、霧香は前にも見たことはあった
けれど、それがなぜ必要なのか未だによくわからない。
 そうした方が塗りやすいから?それならどうして手の指に塗
るときには使わないのかな?
 もちろん、爪を塗ったら、他のミレイユの化粧同様に、もっ
と綺麗になることぐらいは霧香にだってわかっている。だが、
納得はできない。もっと綺麗になるためにミレイユが爪を縫っ
たりする必要なんか無い。ミレイユの美しさは天性のものなん
だから、と霧香は信じている。

 今のミレイユは霧香と似たものを着ている。今塗っているペ
ディキュアと似たラベンダー色の服だった。わざと同じ色にし
ているのか霧香にはわからなかったが、よくマッチしていた。
ミレイユの服は霧香のより丈が長く、すねまで届いていて、袖
も手首よりも少し長いので、全身をすっぽり包み込むようだっ
た。ただ、襟ぐりがスクープネックなので鎖骨まで丸見えだっ
た。ぴったり身体にフィットしているせいで、まるで絹の手袋
を手にはめるように、ミレイユの全身の曲線美が目立っている。
 霧香の私見だが、身体のラインに添った、ヒップや胸のライ
ンを強調する服がミレイユの趣味だ。しかしこの服はワンピー
スで、上から下までいつも以上にミレイユの体格ぴったりで、
ラインを強調している。
 そんなミレイユを見ているだけでも霧香にはたまらない。

 ミレイユが座っている炬燵の端には、まだ使っていない予備
のコットンボールがいくつか、それとさっきまでサンドウィッ
チが乗っていた皿と、水の入ったグラスが、今は空になって残
っている。霧香の空グラスも皿と一緒に床の上に置いてあった
が、そのグラスの底にわずかにオレンジジュースが残っていた
のがパートナーと異なるところだ。
 ミレイユと霧香が食事の買い出しにスーパーに行ったのは三
日前になる。三日間の休暇。三日間だけの、平凡な朝、当たり
前の昼、日常そのものの夜。

 退屈ではなかった。家の中に閉じこもって外出の娯楽も味わ
えずに丸三日間も過ごせばおそらく普通の人ならうんざりして
しまうだろうが、霧香はそういう普通の人ではない。霧香にと
って時間を費やすべきことはこの家の中に山ほどあった。しか
もそれが全て愉悦の追求なのだから。ベッドで、床の上で、窓
辺でまったりしながら、時間感覚も奪われて、夢と物思いに頭
をどっぷりと浸らせている自分がいた。珍しいテレビ番組を見
たり、パートナーと料理に興じたり、その成果を二人で一緒に
堪能したり、夜はベッドでブロンド美女の傍らに寄り添って喜
びに満たされて過ごしたり…何もかもがミレイユに心奪われる
ささやかな喜びだった。
 シンプルな生活にシンプルな喜びがある。今までシンプルな
人生とは無縁だった者たちにとってはなおさら、それは無上の
喜び。至高の平穏。

 ミレイユも四方を壁に囲まれているからといってクヨクヨす
るような人間ではない。まるで荘園からパリの家に戻ってきた
時のように、あっけらかんと時を過ごしていく。霧香も似た者
同士でよくわかる。ミレイユはいつも何かをしている。茶を飲
んでいるのでなければ、ノートパソコンのまぶしいモニターを
凝視しながら、霧香にはちんぷんかんぷんなのに自分だけにわ
かる冗談でこの黒髪の少女をからかったりするのだ。時には霧
香と一緒に日本のテレビを見たりもするし、一緒になって顔に
困惑の色を浮かべたりもする。ミレイユは自分にとって必要と
するニュースでもない限り、テレビで時間を費やすことは無い
し、テレビの画面よりは自分のPCのモニターを見ている方が
性に合うのだが。

 霧香はこの時間が終わらないように、と願っていた。1分が
永遠になってほしい、と。この明るい昼に永遠に夕闇が訪れな
いでほしい、と。だが、霧香のミレイユへの想いを永遠のもの
にしてくれるものなどいない。時間は何も救ってはくれず、何
も与えてはくれない。一秒ずつ、果てしなく過ぎていくばかり。
ただ、新たな朝が来るばかり。また静かな一日が来るばかり。
今日もそんな一日にすぎない。
 霧香はそんな曖昧な現実から逃避しようとしたが、現実は霧
香のバリケードを何度もすり抜けてますますグダグダな時間に
なってしまう。

 霧香の時間に暗雲が立ちこめる。砂時計をこぼれ落ちる砂は
僅かで、砂時計そのものを壊すことはないけれども。

 霧香が目を楽しませながら最後のパンの耳をもぐもぐさせて
いるうちに、ミレイユはピンクの足爪に当てていたペディキュ
アブラシの動きを止め、十枚の爪を全てラベンダー色に塗り終
えた。ようやく仕上げたという満足の笑みをたたえ、ミレイユ
は仕事ぶりを少し確認してから、今度は足指の間に挟んでいた
くしゃくしゃのコットンボールを外しだした。使用済みのコッ
トンボールには目もくれないまま無造作に炬燵の上に並べてい
くミレイユは、手入れし終えた爪にうっとりしていた。

 霧香も目を奪われていたが、その視線はミレイユの足先から
頭のてっぺんまで隅々に渡っていた。この美女の全てが、霧香
を虜にしていた。

 六つ目のコットンボールを外すと、ミレイユは足を上げ、足
指をほぐそうとわきわきと動かした。その視線を上げ、炬燵越
しの霧香と目を合わせたミレイユは鷹揚としていて、まるでず
っと注視されていたことも気づいていたと言わんばかりの目は、
全てお見通しのように少女を誘うように引きつけてしまった。

「手伝ってくれる?」

 何をすればいいのか霧香はよくわからなかったが、それを理
解しようとする勢いのまま首をこくんと前に下げてしまってい
た。とにかく、霧香はパートナーのために自分ができることな
ら何でもやりたいのである。

 ミレイユが霧香に向かって笑いかけたその顔に、ユーモアと
同時に何か我慢しているような表情(いつもならこの得難い相
棒には何でも許しているのに)が浮かんでいたので、霧香は困
惑の色を表さずにはいられなかった。

「これに、ふーってしてくれるかな。そうしたら早く乾くのよ」
 ミレイユが畳の上で自分の足をちょっと突き出してきた。そ
の動きに霧香はドキッとさせられたのと同時に、意味を呑み込
むことができた。

 腹這いのまま肘を使って床の上を匍匐前進した霧香の視界に、
ミレイユの足が捕捉された。だが、まだ自信が持てず、せっか
くミレイユが手入れしたのを台無しにしたらどうしよう、と思
って息を吹きかけることができないまま、霧香はしばらくブロ
ンド美女の足を見つめるばかりだった。
 きれいな足…と霧香は思った。華奢でありながらミレイユの
体格にふさわしく小さすぎないサイズ。いくら小競り合いや任
務に絡んで走り回ったりする場面に遭遇することが二人とも多
いとはいえ、しかもミレイユ自身が好きこのんでとはいえ、あ
んなに窮屈な形の靴にぎゅうぎゅうに押し込められたり靴紐で
がんじがらめにされているというのに、ミレイユの足はとても
柔らかくてしなやかそうだった。ミレイユは自分の肉体のお手
入れに余念が無く、いろいろなクリームやらローションやら様
々なものを愛用しているが、この足はそれとはまた話が違うの
だった。

 だが、まるで罠におびき寄せられるように、霧香はおずおず
と顔をミレイユの足に近づけ、頬を膨らませて唇を突き出し、
まだ濡れている足の爪先にそっと息を吹きかけた。控えめな息
ではあったが、霧香の願いどおりに、塗ったペディキュアを痛
めない程度に乾燥を早めることができた。濡れたペディキュア
の芳香が強くてクラッとしかけた霧香は鼻をしかめかけたが、
ほとんど気にかけなかった。

「くすぐったいわ」
 ミレイユが言った。霧香はすぐに息を止めて顔を上げ、パー
トナーの顔を不安そうに窺いながら申し訳なさそうな表情を浮
かべた。
「いいのよ」
 ミレイユは目の前でうつ伏せになっている霧香に穏やかな笑
顔を向けながら、安心させるようにそう言った。どこかためら
いがちに、おずおずと、しかし優しく、ブロンド美女は手をさ
しのべ、その指で霧香のくしゃくしゃの髪を梳き、額の前髪を
かき上げた。霧香の頭に載せたままの右手の親指で、ミレイユ
は霧香のおでこをくりくりと撫でた。この平穏な三日間で最も
甘い時間の中、予想もしなかった思いやりと親愛に満ちた想い
に、霧香は全身で浸りきっていた。霧香はパートナーと視線を
合わせようとした。だがミレイユの目は、確かにこっちを向い
ているのだが、その視線は霧香の視線とは合っていなかった。
まるで霧香を通り抜けて、どこか遠くを見つめているかのよう
だった。ミレイユだけに見える、何かを。

 まぶたをパチクリさせて、ミレイユの視線が現世に戻ってき
た。ブロンド美女はまたニッコリと微笑んで、霧香の髪をくし
ゃくしゃになるほど撫でて、それから床に置いてあったペディ
キュアの瓶からブラシ付きの蓋を手に取った。左手の手首をき
かせて手を振り、足指の爪の様子をちょっと確かめる。そして
指の爪を服から抜け出してきたようなラベンダー色に塗ってい
き、そのたびに何度もブラシを瓶に戻した。

 特別に素敵な時間が終わってしまってちょっとがっかりしつ
つ、霧香も息を吹きかける作業に戻った。一本一本の足指に息
を吹きかけながらも、霧香はこの作業が永遠に続いて欲しいと
思った。いつだって、時間が短いと思うことのあとにはこうい
う失望がちょっぴり待っている。時間を止めることはできない。
たとえそれが、愛であっても。

 ミレイユからもういいと言われるまで息を吹き続けた霧香は、
再び腕を組んでその上に頭を休ませたが、恋人がマニキュアを
全部の指に塗り終えるまでその姿から視線を外すことはなかっ
た。ミレイユが美への努力に励む時間は、さほどかかったわけ
ではないのだが。

 マニキュアの瓶の蓋をしっかりと閉め、炬燵の上に置くと、
ミレイユは身を乗り出し、まるでバランスをとるように両手を
伸ばし、霧香の顔の前で両手をぶらぶらさせた。

「ね、こっちも吹いて」
 陽気に頼むミレイユが、霧香にウインクを投げかけた。

 ぱっと肘を立てて身を起こした霧香は、期待に応えようとや
る気満々で、決してミレイユを失望させない、と言わんばかり。
そんな霧香のマジメさを面白がるかのように、ミレイユはニコ
リと笑った。
「今度、霧香にも塗ってあげるわね」
 イタズラっぽくミレイユが申し出た。

 その言葉をどうとらえたらいいのか、霧香にはわからなかっ
た。何度となく服の買い物に付き合わされ、あれやこれやと着
せ替えの実験台にされ、様々なポーズをとって立たされた記憶
が脳裏によみがえった。自分でも楽しかったと思うし、ミレイ
ユも楽しんでた…。でも、足の爪だけというと…それじゃ、ミ
レイユはいったいどれだけの色のペディキュアを持ってるんだ
ろう…?ミレイユが霧香の足の爪に次々と違う色のペディキュ
アを、それもたった一回で、全部の色を使い切るまで塗ってい
く様子を、霧香は想像してしまった。ミレイユにとってファッ
ションは、暗殺者であることと同じくらい重大事なのだ。

 固まってしまったように見えたミレイユの手がいきなり生気
を取り戻し、ミレイユは右手の指二本で霧香の鼻をきゅっとつ
まんだ。

「終わったわ!」
 そして、またウィンクする。
「ありがと」

 自分が役に立てたのが嬉しくて、霧香は微笑んだ。何かの役
に立つ、ということは霧香がかつて求められていた忌まわしい
殺人技とは無縁のことだ。その大半は、ミレイユの役に立てる
ということなのだ。

 ミレイユは身を起こし、自分の爪をほれぼれと眺めた。両手
をまっすぐ伸ばしたり、顔のすぐ前まで近づけたりする。それ
を見た霧香は、ミレイユが喜んでいることに、そして自分が僅
かなりとも役目を果たせたことに、満足していた。

 ミレイユはまだ左手を視線の高さにかざし、その爪に見惚れ
ている。…が、その右手は炬燵の下をまさぐっていた。再び外
に出てきたその右手に握られていた物は、霧香にとって二度と、
とは言わないまでも、せめて明日までは見たくなかった物だっ
た。

 ワルサーP99のトリガーガードを人差し指でポンポンと叩
きながらを、ミレイユは銃を掲げ、天井に銃口を向けた。自分
の爪に見惚れていた様もどこへやら、女暗殺者の視界に霧香が
入る。ミレイユの顔に一瞬ためらいがよぎり、すぐに霧香の顔
から目を背けた。だがミレイユは決してためらっても、怖がっ
ているのでもない。何があろうと弱気なところを見せることは
ない。仕事の遅れはすぐに取り返す。仮面から隙を見せること
はない。

 銃を叩いていた指の動きが停まった。
「片を付けましょ」
 ぽつりとミレイユが言った。優しい顔になったミレイユだっ
たが、その笑みはぎこちない。

 霧香は頭を垂れ、視線を落とした。よくわかっている、とい
うこれが霧香の精一杯の仕草だった。炬燵の下で愛銃が眠って
いるところを、霧香は一瞥した。でも、もう目覚めさせなくて
はならない。霧香は愛銃からも、ミレイユの銃からも目を背け
ようとした。だがその二つは、二人の平穏な昼と夜の間でもず
っとつきまとっていた。いつも傍にいて、そして地平の彼方の
戦いの日々を思い起こさせる物だった。

 霧香はゆっくりと炬燵の下に手を伸ばし、眠れる拳銃を手に
取った。最後の砂粒が砂時計の下へ流れ落ちていくように、夢
は現実の前に儚く崩れ去った。「当たり前」が皮を剥くように
消えていき、幻影の凝結力は最後の日、最後の刻へと揺すぶら
れて散逸していく。霧香とミレイユが日本で過ごした三日間で
初めてではない。ジャックの資料に触れた最初の夜以来初めて
ではない。二人が肌身離さぬ銃口の前に恐るべき何かがいるの
がわかった最初の朝以来初めてではない。銃は符丁に過ぎない
が、純粋さを打ち砕く究極の存在。唯一の符丁でありながら、
その意味するものはあまりにも多すぎる。

 霧香はしぶしぶ起き直り、炬燵の前で正座した。そして炬燵
の上にベレッタM1934を置いて、両手を膝の上に置いた。
その銃を見つめる霧香の手は、ぎゅっと膝頭を握っている。

「大掃除の支度をするわ」
 静かにそう言うとミレイユは立ち上がり、銃を持ったまま台
所の方に消え、二階に上がっていった。ミレイユがその場を離
れたことに霧香は気づいていたが、その目は炬燵の上の銃から
離れることはなかった。

 無意識に(いや、本能的に)霧香の手は膝の上から銃に向か
って伸びていた。
 霧香の銃。ずいぶん長いこと手にしていなかったが、かつて
使っていた物と寸分違わない銃。霧香の脳内のプログラムが起
動し、そして霧香のもう一つの闇の心とともに一連のコマンド
が機械的に続いていく。四肢が勝手に反応し、感覚が刻一刻と
増大していく。

 霧香は銃の台尻を押し、弾倉を排出させ、それを炬燵の上に
置いた。素早い動きでスライダーを引き、また元の位置に戻す
と、銃弾がチェンバーから飛び出して宙を舞う。暗殺者少女は
それが炬燵の上に落ちる前にパッと手に取り、弾倉の横に置く。

 霧香は安全装置を後ろに倒し、再びスライダーを引いたが、
今度は安全装置レバーのおかげでそのままロックされる。銃身
が開きっぱなしになったところで、霧香は前から押すようにし
て銃から外し、やすやすとバレルを本体から外す。外したバレ
ルを正確に炬燵の上の、弾倉と一発の弾丸の上に水平に置いた。

 霧香は安全装置のレバーを倒し、スライダーのロックを外し
て前に押し出して完全に外した。そして炬燵の上の部品群の一
つに加える。

 骨組みのようになった銃の前から後座ばねを引き、螺旋状の
溝から外し、スライダーとバレルの下に置く。

 最後に安全装置レバーを緩めて下げれば、後は拳銃の抜け殻
(ほぼ銃把だけも同然)のみが残る。それも分解した部品と一
緒に並べる。ベレッタは15秒も経たないうちに(おそらく十
秒強程度で)分解された。霧香は自分では全く時間を意識して
いなかったが、ハッと我に返ってみると目の前では銃が部品に
なっていたのだ。目をつむっていても同じ事ができただろう。
そして、元通りに組み立てることもまた然り。

 ミレイユはまもなく戻ってきた。ミレイユは霧香の右横、す
ぐ近くに座り込んだ。些細な事だったが、霧香がそれに気づか
ないはずはなかった。台所からなら霧香の真向かいが最短距離
だし、自分の武器を分解するためのスペースもじゅうぶん確保
できるはず。なのに、ミレイユはそうしなかった。些細な動作
でも、霧香にとっては意味があるのだ。

 ミレイユは自分のワルサーP99を手前に、そして圧縮空気
のエアゾール缶と潤滑油、クリーニング溶剤、布と端切れの束、
そして二人の銃の口径に適したクリーニング棒と銃身用ブラシ
を入れたボックスを、炬燵の中央に置いた。圧縮空気は銃の内
部構造の清掃において繊細に、しかし徹底的に行うためのもの
である。任務を遂行するうちに溜まっていく埃や煤もこの強力
な空気圧で一気に吹き飛ばせるわけだ。そのためにけっこう長
めの筒型ノズルが付いている。布はその反対に、銃本体の外側
を磨き上げるのに役立つ。潤滑油は衝撃が加わる部分や、銃火
の煤がこびりつくのを防ぐために限定的に使われる。ブラシは
バレル清掃用。片面が織布、もう片面が不織布の四角い端切れ
は、圧縮空気の届かない内部を清掃する溶剤を浸ませ、クリー
ニング棒に巻いて奥に突っ込む。
 巻き込まれた仕事とはいえ、反復した訓練が規則正しく素早
い手順となって霧香にもミレイユにも染みつき、あたかも愛銃
を事前に壊してしまうかのような行動になっている。

「試し撃ちに人目に付かない場所を探さなきゃ」
 弾倉を銃から抜き、炬燵の上に置きながらミレイユが言った。
「長距離の練習には裏庭じゃ広さが足りるか自信がないわ」
 スライダーをグイッと引き、さらに銃口を炬燵の方に傾けな
がら、引いたスライダーをガシャッと前に押してレストポジシ
ョンにした。排出される銃弾が確実に炬燵の上に落ちるように
するためである。9ミリパラベラム弾が何回も炬燵の上で弾み、
転がったが、端からはみ出て床に落ちる前にミレイユがさっと
手で受け取る。
「それに、いくら消音器を付けていても、詮索好きなご近所に
は聞こえちゃうだろうし」
 転がり出た銃弾を弾倉に戻すミレイユ。
「たぶん好奇心が過ぎて塀を越えて覗き見されちゃうわね。そ
の時が来るまであんまり外には出たくないんだけど…」

 霧香は手を伸ばして圧縮空気のスプレー缶をつかみ、分解し
たベレッタM1934のスライダー部を手にした。

「いい場所がある」

 静かにそう言って、霧香は金属製の部品の内側に沿ってエア
を噴射した。

***
 
 慣れ親しんだ場所でもないのに、霧香は分厚く青々とした緑
のカーペットの上をのんびり歩いていた。緑深く、瑞々しい草
の上を。
 若葉には露がおりていたが、葉は伸びていたので先端が足元
を濡らしはしない。その代わり葉の先より少し上まで、サンダ
ル履きの足を高く上げなくてはならない。風が止むと湿気が襲
ってきて、見渡す限りの草の毛羽にずっとまとわりつく湿り気
が両足に冷たい。夕叢家が建つ通りからそれほど距離のない裏
手の場所だというのに、ここの風は強く、風音が他の音をかき
消してしまっていた。

 だが、このむせかえるような緑の中にいると、まるで人家が
数マイル彼方にあるようにしか思えない。港湾側の郊外を自然
の竹林があたかも隙間一つ無い壁のように包み込み、霧香とミ
レイユが足を進めるほどに親和性を増していった。そこは川崎
という都会の隅にそっと隠された草地だった。
 初めてその場所を見つけた時、霧香はそこを平穏で趣のある
場所だと思ったが、それ以上にどこか不吉な感じが湧き上がっ
た。この草地には常に奇妙な雰囲気が漂っていた。その謎は竹
のシェルターの内側でなければわからなかった。

 霧香はまるで夢を見ているようだった。記憶が魂の奥から引
き出され、現実にインサートされた。

 ここだ。
 この竹と草地に挟まれたここで、霧香は初めて人を殺した。

 ここで過ごした十年間とその記憶を越えて、少女は…夕叢霧
香は「目覚めた」。そして、天与の本能と宿命的な正確さをも
って、霧香は殺した。人の命を消し去ることに思考が届くこと
もなく、行為は実行された。

 当たり前の人生なんて作り話に過ぎない、と霧香が悟ったの
もここだった。血と罪が霧香の手を真っ赤に染めたのを見たの
も。

 忌まわしい記憶が蘇ったが、闇が付帯してくることはなかっ
た。もし悲嘆や願望が凝り固まっった感情になったとしても、
 霧香の心を脅かすような力はもう失われていた。ミレイユが
言ったとおり、過去は過去であって、今さら変えるわけにはい
かない。その通りだ。過去は現在への道で繋がっている。もは
やその過去を変えたいなどと霧香は思わない。完全無欠ではな
いにせよ、今の霧香は幸福を掴んでいて、それに感謝せずには
いられない。よしんばもっとましな幸福があり、その地平に手
が届いていないとしても、今の霧香にはじゅうぶんな幸福があ
った。

 今の霧香には、ミレイユがいる。
 ミレイユが全ての中心。
 ミレイユが、霧香の全て。

 霧香の後を追ってくる陽気な美女を、少女は振り返って一瞥
した。暗黒の世界の闇の中で、霧香の手をしっかり握ってくれ
たミレイユ。ミレイユこそ闇の中の光明。罪人の中の天使。霧
香がミレイユとその愛を得ている限り、何の問題もない。そし
て常に、より良い明日に希望を抱いていける。常に、いついか
なる時も、ミレイユの夢見るような青い瞳を見つめていける。

「あとどれくらい先なの?」
 霧香の視線を感じたかのように、ミレイユが言った。その声
には明らかに我慢しようとしても漏れてしまう不平がこもって
いた。ミレイユは少し身をかがめ、首を垂れ、髪を両頬の脇に
だらりと下げ、噛みしめた歯の間から不満めいた息を吐きなが
ら、ひどく深くてびしょびしょの草地を抜けてきた自分の足を
見つめていた。霧香同様にただのサンダル履きで、この湿気と
冷たさには全くの無防備だった。
 つい一時間足らず前にミレイユが丹精込めて手入れをした足
指が、この草露で台無しになってしまわないように霧香は祈る
しかなかった。

 ブロンド美女は左手でドレスの裾を膝上までからげて束ね持
ち、両脚が自由になるようにしていた。布の玉のように裾を手
で握っているミレイユが、足首まで濡れちゃってもいいや、と
決断するよりも前にとっくに、向こうずねを斜めに横切る裾は
草葉に撫でられてすっかり黒く濡れてしまっている。
 霧香も不安になってきて、ここに来たのは間違いだったかも、
とすら思えてきた。霧香もミレイユも薄着の上にコートを羽織
ってはいるのだが、暖かいどころか、丈も短くてこの不快な環
境を耐えしのげる代物ではなかった。目的地まで15分以上も
かからないと霧香は思っていたし、ミレイユもそう思っていた。
さもなければ外出する前にこの寒さに備えてもっと暖かい服を
着るよう年下のパートナーに強いたに決まっている。

 霧香とミレイユは竹林のカーテンの奥で、銃のテストと自分
自身の腕前のチェックのために弾倉1、2個分の銃弾を消費す
るだけの予定だった。もっとも、二人の腕前はいつだってほぼ
100パーセントに決まっている。

 ただ、霧香は一度だけ、ミレイユが的を完全に外したのを今
でも覚えている。二人がシチリア島でミレイユの恐るべき幼な
じみイントッカービレと対峙した時である。しかもそれは霧香
が、いつもクールで沈着冷静なミレイユが本気で人に怯えおの
のく姿を見た唯一の経験だった。
 その目撃者となったことは霧香にとって興味深い経験であっ
たと同時に、ゾッとするほど恐ろしいことだった。その経験は、
霧香に新たな、しかも強烈な感情と欲望を植え付けていた。ど
こをとっても強かったミレイユが、あれほどに無防備な弱みを
露呈してしまった。
 霧香はそんなミレイユをかばいたいと思った。守りたいと思
った。見守りたいと思った。

 それ以来、霧香はずっとそうしている。

 ミレイユを守りたいという動機は無限で、どんなに些細なこ
とであっても、二人の仕事には付きものの命に関わる危険と等
価になってしまう。だからこの場にとどまる時間がどれほど短
かろうと、ミレイユにはコートのボタンをちゃんとかけていて
ほしいと思った。ミレイユは霧香に、ジッパーをちゃんと上げ
ておきなさい、と言ったのに。

 私がそうしなきゃならないなら、ミレイユだって。

 実際には、ミレイユを些細なことから守るのは、銃を手にし
て援護するよりもずっと難しい。余計なお世話にならない程度
にしか愛する人の手助けができず、いつも霧香はなすすべもな
く、やきもきするばかり。それが霧香の舌足らずな口をふさぎ、
手助けしたいのにその手を縛ってしまい、気持ちだけがもやも
やしてしまう。

 緑のカーペットが急に窪地にさしかかり、霧香はその一番上
で足を留めた。

「もうちょっと」
 静かにそう言った声は、風にかき消されそうだった。

 この急傾斜は今までよりももっとゆっくり降りなきゃ、と思
った瞬間、霧香の時間が巻き戻り、ソルダの暗殺部隊に追われ、
うなりをあげて身体をかすめる銃弾に逃走を急いだあの時が蘇
った。
 その追跡も、敵の命も、無数の竹が奏でる甲高い音が一つに
集まって咆哮を叫ぶこの場所で終わりを告げた。
 …「夕叢霧香」としての人生もまた同じく。

 坂の底に着くと、霧香は振り返ってミレイユの足の運びを見
た。ミレイユは霧香よりもおっかなびっくり降りてきていた。
というのもハイヒールのサンダルが邪魔になってバランスがと
りにくかったのだ。ドレスの裾をさらに高く持ち上げなくては
ならず、左の膝を露わにして、目は足場を捜すのに必死だった。

 坂の下に少しずつ近づきながら、ミレイユは待っている霧香
を見上げ、あとどれくらいかを見積もりつつ、手を伸ばした。
だが、その手をどうしようか霧香が考えるより先に、不意にミ
レイユが濡れた芝に右足を取られてつんのめり、今にも不格好
に転げ落ちそうになった。
 霧香の本能と研ぎ澄まされた反射神経が、ブロンド美女に対
する引っ込み思案で臆病な意識を押しのけ、愛しい人が今にも
陥ろうとしている危機的状況に素直に反応した。ミレイユが伸
ばしていた手を霧香はしっかりと握りしめ、全身にグッと力を
込め、前にのめって来る相棒を支え、琴工を取り戻すべく筋肉
を張り詰めさせた。

 再び足場を確かめたミレイユが、一歩一歩エスコートのよう
な霧香の手を握って残りの傾斜をたやすく下りながら顔を上げ
ると、その照れくさそうな表情ではあるが感謝に満ちたその微
笑は、霧香にとって最高のご褒美になった。

「ごめんなさい…」
 ミレイユが無事に一番下に立つと、霧香は悲しげに言った。
残念ではあったが、霧香はミレイユの手を握る力を抜いて手を
放した。そんな良い思いをしたらバチが当たる、とでも言いた
げに。うなだれた霧香の目に、自分の足と、ミレイユの美しい
足が近づくのが見えた。ミレイユの両足は濡れて煌めいていた。

「あら、別に霧香のせいだなんて思わないわ。私そんなにお下
品じゃないもの」
 肩をすくめたミレイユだったが、冗談めかしたその言葉には
少々トゲがあった。ミレイユの立腹の理由は、霧香が幸運だっ
たせいでもある。
「…二人だけこんな場所に備えた服装じゃないのに、霧香だけ
平気っぽいってどういうことかしら?」
 しばらくしてから付け加えたミレイユ。

 ミレイユが鷹揚なふりをしていることも、最後の言葉が慰め
どころかイヤミだということも霧香にはわかっていた。自分が
この地勢のことを前もってミレイユに伝えていなかったことに、
霧香は悔やむしかなかった。きつい思いをしたミレイユは、霧
香が気配りしてさえいればきっともっとたやすくこの場所にた
どり着けていたに違いないのだから。ミレイユに不快な思いを
させないだけの気配りを阻害したのは霧香の性格のせいばかり
ではないだろうが、しかし霧香はそれを最も思い知らされる人
を目の前にしている。

 霧香とミレイユはこの場に対応できる服装も装備も何も持っ
ていない。そのことを脇に置いたとしても、これがミレイユに
関わることである以上は完全に忘れることなど無理というもの
で、霧香は悲しげな視線をミレイユと、その水浸しの足から背
けて、周囲の草地を見回すしかない。

 ここにわだかまる霧香の過去の亡霊は、おそらく風と共に怨
嗟の声を上げているのだろうが、それは夕叢家の亡霊とは同じ
ではない。この地の亡霊たちは家ではなく人そのものであり、
文字通りの死者たちなのだ。

 吹く風が銃声をかき消しはしたが、生い茂る草でも死体を覆
い隠すことはできない。霧香が手をかけた死体を。それぞれ一
発の弾丸を胸部に撃ち込まれて呼吸を永久に奪われたあの三人
の死体がどうなったのか、霧香にはわからなかった。この地は
古くからの犯罪現場で、謎の三人殺人事件として迷宮入りにな
ってしまっているのか?それともソルダが全ての追跡の跡を消
した上で死体を運び去ったのか?それにしたって銃弾の薬莢が
草むらに散らばっているだろうに、それもバカ丁寧に探し出し
て回収したというのか?ソルダは痕跡を残さないことで有名で
はあるが、ここの後始末の真実は連中にしかわからない。

 今までさんざん多くの人の命を奪ってきたというのに、あの
三人のソルダに、たった三つの命に、悼ましいと思うなんて奇
妙かもしれない。だが、心に良心の呵責の種がまかれたのを霧
香は感じていた。そう、霧香にとってあの三人は初めての殺人
だったのだ。身を守るためとはいえ、殺人は殺人。それに…。

 霧香の陰鬱な表情が寒々しい風景の中にさらに沈むとともに、
霧香の心も急に落ち込んでしまった。ただ、記憶がいつまでも
まとわりつくが、後悔で霧香が落ち込んでいるわけではない。
殺した者たちを悼んでいるのでもなかった。霧香が悼んでいる
のは自分自身の喪失だった。何も知らない無垢な自分を失った
ことだった。瞬きする間に霧香が奪った命に対してではない。
もし霧香の両手が、もしくは霧香の心が、漆黒に染まっていな
かったなら、そうかもしれないが。

『罪人…』

 そう、わたしは罪人なのだから。


「ずいぶん人里から離れたわね。ここなら人目につかないわ」

 そう言ってミレイユはこの隔絶された場所を見回した。その
声が絹のよう囁きとなって霧香の心に押し寄せ、まるで蜘蛛の
糸のように絡みついて、まるでノミを絡め取って引っ張り出す
かのように、少女の頭の中から霧香自身を外に連れ出し、現実
に引き戻した。
 ミレイユははためくコートの奥から銃を抜き出し、同時に左
手で右襟から銃の消音器を取り出した。ミレイユは霧香を横目
でちらっと見やった。もしミレイユが霧香の憂鬱に気づいたと
しても、その横顔は平静を保ったままだった。それともミレイ
ユは迂闊にも、自分が坂で足を滑らせたことが霧香の憂鬱の原
因で、相棒の狼狽する姿を再び蒸し返したくないと思ったから
だと考えたのだろうか。いずれにせよ、憂鬱な霧香は自分をミ
レイユに明け透けにしようとは思っていない。霧香自身の内面
の戦いのごとき、外に出すことなどできないものなのだから。

 でもこんなことを抱え込む方が、よっぽど恥では?

「でも、近くに誰がいるかわからないし」
 そう言いつつミレイユはワルサーP99の銃身に消音器をね
じ込む作業に視線を集中させていた。銃を顔の高さにまで上げ、
準備を終えると再び霧香を見つめる。
「リスクを冒すことは絶対避けないと」

「うん…」
 心ここにあらずといった様子で霧香は懶げに返事をした。消
音器は銃の照準や射程に影響するので、霧香もミレイユも消音
器を付けて射撃練習をすることは滅多にない。だがミレイユの
ような射撃の名手にとって、銃の射程距離を越えた超長距離の
標的を狙うために銃を交換するのでもない限り、さほど問題で
はないし、これだけの広い場所なら正確性と言っても重力に引
かれて弾丸は地面に落ちるだけだ。

 霧香の腕前にも消音器は問題ではない。むしろある意味、霧
香にとっては自らの罪の痛みを死の囁きのように柔らかな悪徳
で和らげてくれるがゆえに、ありがたいものですらあった。静
寂の中で自らの行為の苦汁を消してくれる、と言えた。もちろ
んそれは現実ではなく、罪人の幻想に過ぎないのだが。
 霧香は自分のベレッタに消音器を取り付けた。

「ここじゃ標的になりそうなものはあんまり無いわね」
 そう言ってミレイユは、あたりの竹を窺いつつ、空き地の真
ん中に歩み出た。立ち止まって、銃を持った手を弧を描くよう
に滑らかに振り上げ、ぴたりと構えを固めると、ほぼ無音の弾
丸を発射した。ブロンド美女のかなり向こうに立っていた竹が
一本激しく揺れ、その見事だった竹に不自然な丸い穴がぽっか
りと開いた。他の竹よりも大きく前後に揺れるその竹の動きに、
風は何の作用も及ぼしてはいない。
 振り返ったミレイユの顔には、自信に満ちた笑みが浮かんで
いた。
「でも、なんとかなるでしょ」
 竹の幅はわずか2インチたらずだというのに。

 ミレイユがここを良い場所と認めてくれて、霧香は嬉しかっ
た。それは家の居間で相棒のマニキュアの手入れをするのとは
比べものにならない。役に立ったのは嬉しいが、今のは霧香に
とって好まぬ類のことだったからだ。

 霧香はミレイユの傍に歩み寄りながら、銃を構えた。そして
たどり着く前に引き金を引き、二発目の銃弾を竹に叩き込み、
さらに深い穴を穿つと、再び竹は大きく揺れた。竹に開いた弾
痕の上部は斜めにたわみだし、やがてボキッと折れた。竹は標
的としては何発もの射撃には耐えられない。血肉を備えた人間
と同じように。

 全ての竹が霧香とミレイユを包囲する無数の人間、標的とな
った。二人は思いのままに銃を撃ち、弾倉を空にし、容赦なく
ミスもなく、多くの竹を撃ち抜いた。音もなく発射される弾丸
と、雨のように排出され無音で転がる薬莢が、この草の上で忘
れられた古い9ミリ弾とその他の銃弾(今でも残っていれば、
だが)と混じっていく光景は、正常の目から見れば幻覚が少々
混じっているのだろう。しかし霧香は正常だし、霧香の人生に
おいてその場にいたのだ。自分にとって、それは他の何よりも
正常なことだ、と霧香は思った。

***

 ドミニクは石ノ森タワービルの回廊を歩いていた。クロム色
の壁面が静寂さを醸し出す遅い午後だった。とっくに夜も更け、
本来ならベッドで眠る時間である。普通の人々にとってはそん
な時間だが、ドミニクにとっては違った。ドミニクがまだ身に
まとっている昼用のビジネススーツは、長い時間着っぱなしだ
ったせいで、窮屈で、皺だらけで、薄汚れた感じがしていた。
石ノ森帝国の些末な業務はいつ果てるともしれない仕事に思え
た。だが、書類仕事ではない夜の仕事に、ドミニクの目は冴え
渡っていた。

 歩くドミニクの左肩の側、巨大なプレキシガラスの窓の向こ
うに、横浜の灯光がまるで漆黒のビロードの上に散りばめた様
々の種類、大きさや形の宝石のようにきらめいていた。その宝
石一つ一つから、ちっぽけな瞬きまで、全てはドミニクの支配
下である石ノ森の係累に属している。血と人命で購ったものだ
が、しかし全てがそうではない。横浜は復讐で購われた街。
 いずれにせよ、ここは数百万の人口を抱えた大都市である。

 回廊は静かだが、人っ子一人いないわけではない。そう、ま
だドミニクが一人だけになるようなことは、この長い回廊であ
っても無い。今夜の担当に定められた警備員が正確な間隔で立
ち、黒づくめの制服で警戒しているせいで、回廊が一見して無
人のように見えるのだ。格闘技の経験豊かな女性のみがこの業
務に抜擢されている。彼女たちには少なからぬソルダの信奉者
がおり、さらに大学レベルで軍事理論を学んだ者も多く、実戦
経験者すら加わった防衛部隊だった。選び抜かれた女性たちが、
油断無い視線と用心深い体勢で、この厚い壁と数十階の高さの
ビルに供給された保安設備の中であってさえも、任務を忠実に
遂行するのだ。

 監視の目がほんの一瞬だけドミニクに止まったが、すぐに窓
や廊下の角、扉にと移った。彼女らは当然ながらドミニクを知
っている。会釈や、微笑を投げかければ、それよりは微かな会
釈や微笑かもしれないが、ドミニクは親愛を込めて返してくれ
る。かつてのアルテナと同様に、ドミニクもまたこの女性たち
の絆に属しているが、今のところドミニクは指導者として、彼
女らとはわずかに距離を置いているのだ。上に立つ者として。
 人は指導者を、そして秩序を浸透させることを必要とする。
とりわけ、このような時には。

 ドミニクの行き先は、楓の私室だった。二人の護衛がドミニ
クの到着を向かえたが、その女性の顔も様子も親しげだったの
は、他の者と同じなのだろう、とドミニクは思った。ドミニク
は頻繁に楓の部屋を訪れるので、楓を護衛する役目に当たった
女性たちにとって、ドミニクの姿は慣れっこになっているのだ。

「お嬢様はまだお目覚めです」
 扉に近づいたドミニクに、ヴィオレッタが甘ったるいルーマ
ニア訛りで言った。黒い巻き毛の髪が人を引きつける美女であ
る。

 一方、もう一人のニコラはすでにドミニクには目もくれず、
周囲の警戒に戻っている。ヴィオレッタも時をおかずに元の職
務に戻った。ドミニクにとってこの二人はグラン・ルトゥール
の崩壊以前には見た覚えのない顔だったが、ここの女たちは一
人残らず強い絆で結ばれている、互いを無条件に命がけで信頼
している、とドミニクは信じている。
 噂ではニコラはあの荘園の最期の場にいた、ということだっ
たが、ドミニクは作り話だと決めつけていた。ニコラは短く借
り揃えた脱色ブロンドの髪の、やせぎすな体格をした頑健そう
な女性だが、あの聖なる地においてノワールの襲来を生き延び
た者など誰もいないのだから。

 あの孤児と、貴族の娘…。もし伝承が真実ならば、数世紀以
前から黒き御手はその刃の持ち主をあのような者にはしてこな
かった。なぜ現世紀になって、鋼鉄の意志を持った慈母たるア
ルテナその人とともに現れたのか、その理由を知る者はいない。
噂のレベルですら、ノワールがなぜ反逆したのか推し量ること
も、噂を流布するに足る根拠をどこからか得ることすらもでき
なかった。

 ドミニクはノックしなかったが、少しの物音も立てずに楓の
部屋の中に入り込んだ。就寝の時間であったが、ドミニクは楓
が眠っているとは思っていない。だが、夜は静寂の時間であり、
楓は寝室に一人っきりでいることなど滅多にない。その「お相
手」がドミニクのような苦悩を抱えていることなどない。
 間違いない。

 ドミニクは控えめに中に入ったものの、目障りな蛍光灯の明
かりが廊下から室内の月明かりにまで届いたのだが、急いで静
かに扉を閉めたので、眩いもののほんの少し光が漏れただけだ
った。さっきまで鮮やかな照明に慣れていた目で、ドミニクが
この暗がりを見渡すのには数秒かかった。
 そして室内の様子を明瞭にとらえたドミニクの心は痛んだ。
この部屋の敷居を越えるたびにそしてあえて現実に顔を向ける
たびに、ドミニクは刺すような苦痛に襲われる。その痛みは年
とともに鈍ってはきているものの、いまだに消えない。それな
のにこの部屋に数え切れないほど足を踏み入れてきたことを思
えば、ほとんどマゾだ。

 この私室は楓の相続した物の一つで、楓の母がまだドミニク
にとって世界の一部であったころに住んでいた部屋だった。こ
れは私的な、個人的な遺産だった。血の繋がり並に私的な物だ
った。この部屋の持ち主自身が口頭で告げていたのだ。以前と
同じパステルカラーの、桃色やクリーム色の調度、以前と同じ
抽象画に異国風の彫刻や彫像。楓はそれらを別の物に変えるこ
とには無頓着だった。それとも、ドミニクと同じように時間が
止まってしまったかのような心の疼きがあるのかもしれない。
ここで母と過ごしたことも、そしてドミニクが恋人だったこと
も、記憶として残っていた。

 あの甘く情熱的な昼と夜…黄金の日射しに、青白い月光に包
まれた光は…。もし天国に天使というものがいるのならば、ま
さに光がそれだった。ドミニクはしみじみと思わずにはいられ
なかった。

 心の痛みを忘れるほど我を忘れかけたことに慌てて、ドミニ
クは目を閉じた。時間なんかであの痛みが癒されはしない。ド
ミニクは心の動揺を呑み込んだ。楓にとってはどうなのかわか
らないが、ドミニクにとって光の記憶一つ一つが心に刺さるト
ゲだった。そして冷徹な思慮で押さえ込まないでいると、その
記憶が機会を窺って再び浮上してくるのだ。一つ見逃すと、後
からどんどんと押し寄せてくる。
 幸福な刻は過ぎ、あの女性とともに死んだ。それはもう苦痛
でしかない、そして…そしてこの痛みをドミニクはソルダによ
って癒すのだ。心に刺さったトゲを一つずつ引き抜き、憎い敵
に向かって投げつけるのだ。

 今宵、月明かりを浴びる楓は、何もかもが母と同じく美しか
った。月光を真上から浴びる窓の前に立つ楓の白い髪が曖昧な
色彩に煌めき、青白い顔を光らせていた。髪がもう少し短けれ
ば生き写しだ。
 しばらくの間ドミニクは疼きに我を忘れていた。このさまを
どれほど夢見たことだろうか。

 楓にとってベッドは眠るためのものではない。傷ついた心と
魂が治せないほどの不眠を生んだ。幸いにしてドミニクの被っ
た苦痛よりは少なかったようだが、しかしドミニクは発作的な
悪夢を運ぶ眠れない夜を楓と共有してきた。それは今も続いて
いる。

 ドミニクは自分自身が時折頼る手段である睡眠薬を処方した
りしたが、しかし楓はどれほど効き目があろうとも、自分の肉
体を「薬」で汚すことを頑なに拒んだ。この娘が大量の薬を製
造し、無数の種類の薬(その大半はそれほど効かないが)を売
りさばいていることからすると、おそらく奇妙に思えるだろう。
だが、毒薬を調合する者が自作の薬をほいほいと服用するわけ
がない、ということだ。睡眠薬を拒むのは、ドミニクがコカイ
ン入りのコーヒーを嫌うのとはわけが違う。

 楓は引き締まった身体にローブを無造作にまとっていた。銀
白色の絹が透けて楓の肌の輪郭が影になって見える。しどけな
く前をはだけ、帯はだらりと絨毯に向かって垂れ下がっている。
気の置けない訪問客が相手だとしても、あまりにも明け透け過
ぎという姿だった。確かにここは楓の私室であるとはいえ、お
やおや、である。自分自身の肉体に対する楓の自信は、その外
観とは一致しない。ドミニクは楓に作法を教え込もうとはして
きたが、楓はそんなものを受け入れるほど従順ではなかった。
…というより、楓にとってそういった努力は無縁だったという
べきか。いや、おそらく楓の心は作法を気にかけるよりももっ
と重要なことに向けられていたのだろう。楓が全裸でなかった
だけでも、ありがたいと考えるべきだったと、ドミニクは思っ
た。
 とはいえ、腕や背中や、足の一部だけが今は服で覆われてい
ても、裸だったというのが正確な表現になるだろう。

 楓のペットたちは…そんな曖昧な姿ではなかった。彼女たち
は脚のストッキング以外、その肌に一糸もまとっていなかった。
乱れたシーツの山や谷に身を任せているのが、何をしてこのベ
ッドをくしゃくしゃに乱してしまったかをほのめかすとともに、
彼女たちが裸であることを強調していた。
 楓にとってベッドは何のためのものか、これで明らかだった。
楓はクレアと芙美子の腕の中で救済を、平穏を見出すのだろう。
漠然とした肉の悦びの中で心の動揺から脱出するのだろう。だ
がそれも、ドミニクの処方する睡眠薬同様、ほんのひとときの
忘却でしかない。ともに手順は違っても、どっちが良いとも悪
いとも言えない。楓の選択がドミニクとは違うだけだ。ドミニ
クがベッドを共にするのはただ一人。そう、ただ一人だけ。

 部屋を横切り寝室の扉を開けると、闇の中でしどけなく横た
わっていたクレアが目を覚ましてこっちを見つめた。うつぶせ
のまま、背中を反らし、身体をくねらせたクレアはまるでとぐ
ろを巻いた大蛇が鎌首を持ち上げたかのようだった。そして巻
き毛はゴルゴンのかつら。蠱惑的で、官能的な赤い髪で、ドミ
ニクに向かって誘惑の香りをにじみ出してくる。
 ドミニクはそれを冷静に見つめた。沸き立つような欲望もな
く、熱情も燃え上がりはしない。クレアはただの全裸の女。朝
になれば服を着て、夜になれば服を脱ぐのを毎日のようにドミ
ニクは見ている。ベッドの向こう側にはクレアに背中を向けた
まま、やはり全裸の芙美子が玉のように縮こまっているが、そ
れもドミニクはいつもと同じく冷ややかに見つめている。ただ
それだけ。

 クレアはその小悪魔っぽい顔にドミニクへの温もりも笑顔も
見せなかった。それどころかここ数日は、飼い主である楓自身
にも。まさしく蛇のように、クレアはその絹のような肌から脱
皮して、不快な素肌を露出したのだ。
 ドミニクはこうなることを予期すべきだった。クレアがドミ
ニクに憤慨しているのはもとより、楓にも、自分自身に与えら
れた役目にすらも不満を抱えていたのだ。淫売に甘んじろとい
う命令を受けるのは何よりも腹立たしいものだから。クレアが
怒るのも無理はない、とドミニクは思った。そもそも、クレア
は芙美子のように壊れてはいないのだ。

 その一方で、ドミニクはクレアを使って楓を溺れさせるつも
りもなかった。クレアは単に一時の遊び相手に過ぎない。誤算
は、クレアが楓を手なづけるだけの力量と気力を備えた立派な
「女」だったということだ。だからこそ…そういう命令を下す
のがつらいドミニクだった。今でも、きちんと理屈で割り切る
ことのできない、わけのわからない嫉妬が心を刺す。楓がクレ
アを愛人として見ていることに苛立つ。だがドミニクはそれと
同じくらいの幸福を感じてもいた。ドミニクは二人の娘のある
べき関係の形をわかっていた。これはドミニクが計画し、必要
としていたこと…だが、ドミニクの望んだものではなかった。

 クレアはその愛らしい鼻先をドミニクに向けた。小娘が鼻息
をフンと漏らしたことは容易にわかった。クレアはそのまま両
腕に顔を埋め、目を閉じた。眠りの中でどこぞの犬コロと一戦
交える夢でも見るのだろう。蛇よりは犬の方がましよ、とドミ
ニクは思った。犬は人を噛むが、忠実だし、毒も持たない。ク
レアもそういうふうになればいいのに。

「子供はもう寝る時間ですわ…」
 ついさっきの口調のまま、ドミニクが小声で言った。だが楓
の裸身がふしだらにも嘲るように視野の中に入ってくるので、
ドミニクは顔を背けてしまったが、その視線は釘付けだった。
こんな露出過多もごく当たり前のことだったから、ノックもせ
ずに部屋に入ることにためらいもなかったし、ましてや思い直
すことなどあるわけがない。ここでは淫らな方がまともなので
ある。

「私、もう子供じゃないわ」
 意外なほどハッキリと楓が言い切った。今夜の楓はいつも以
上に目を引いていた。その輝く光の中、楓の何もかもが正しか
った。引き締まり、丸みを帯びた身体は確かに子供のものでは
なかった。裸身でも、楓に恥ずかしがる素振りなど全く無い。
ふしだらではありながら、決して卑猥ではない。この部屋の、
いや、このビル全ての芸術品よりも、楓は美しかった。楓は、
楓を生んだ天使を念頭に置いて育て上げられたのだから。

「そうですわね…」
 ドミニクが歩み寄り、掌中の玉のごとき娘の背後に立って言
った。
「見た目では」
 ドミニクは微苦笑を浮かべ、窓に映った楓の姿に、条件付き
ながら認めざるを得なかった。

 ドミニクは楓の肩に手を置いた。薄手の絹のような滑らかさ。
無意識の欲望にかられ、その手を楓の腕に沿って滑らせると、
手のひらが疼いてくる。ドミニクは衝動をそっと抑え込むと、
我に返って、自分が何のためにここに来たかを思い出した。
…かなりの努力を要したが。

 ドミニクは楓をチェックしに来たのだ。楓が告発されている
薬物に関する裁判は明日…いや、もうじき今日になるのだ。
…そうなれば、楓はこの石ノ森タワービルを出て、裁判に出席
しなくてはならない。

 実際には、出廷など無意味なのだが。起訴と言っても事情聴
取の域を出ないものだ。内部告発の張本人の口を黙らせたこと
で、起訴の土台そのものが結果的に崩れている。マスコミや傍
聴人の目にはともかく、法律の目からは潔白を立証して、楓は
法廷に入って何分か後には出てくることになる。疑いの目がし
ばらく後を引くのは仕方ないだろうが、石ノ森製薬の株価はま
もなく回復する。そうドミニクは確信をもって予想していた。

 ドミニクが苛立っているのは事件の決着のことではない。ド
ミニクの記憶の限りにおいてだが、…楓がこのビルの外にでる
のは初めてである、ということだった。この石ノ森タワービル
の中にいる限りは安全だが、一歩外に出たなら…。

 ドミニクは楓の肩をぎゅっと握り、まるであの最悪の記憶を
呼び起こしたかのようにゴクリと息を呑んだ。おそらくドミニ
クにとっては楓さえ無事ならいい。楓のために何十台も車を行
列させて防御させ、自分の命を楓のために捨てることもいとわ
ない有能な女性たちを護衛にする。そしてドミニク自身もその
場に。もう起きてしまった過去の出来事を現在にまでも迷い込
ませるわけにはいかない。最悪の事態になっても、今回はあの
時とは違う結果にしなくては。あの時するべきだったことを、
今度はやる、とドミニクは思った。

 自分の手の上に楓の手が重なったことに気づいて、ドミニク
はハッと目を開いた。目をしばたたかせて流れそうだった涙を
おさえた自分にもまたハッとした。いつもの氷のような冷徹さ
を崩してしまったことを面目ないと思い、ドミニクは自分を呪
った。息を整えてやっと自分を取り戻す。ドミニクがどれほど
心に傷を負っているのか誰も知らなかった。中でも楓は何も知
らない。ドミニクは楓の炎に対して氷でいなくてはならなかっ
た。自分の役目において、どこまでも強くなくてはならなかっ
た。

「お二人は、見守ってくれていると思う?」

 楓が両親のことを言っていることは、ドミニクにもわかった。
その不名誉の真相を楓は知らない。いつの日にか真実は語られ
なくてはならないだろうが、楓にその準備ができるまでは無理
だった。

「光さまは、きっと」
 ドミニクはそう囁いて目を閉じた。
 見守ってらっしゃる。そして、待っていらっしゃる。
 光の魂が天国にふさわしく今も汚れないことを、ドミニクは
祈った。光は私を導いてくれる。そこがどれほど汚れていよう
とも。そう思うと確信した。再び私たちは巡り会うのだ、と。

「血と炎…血と炎によってお二人の罪を清めるのよ…」
 楓がまるで冷笑するかのように言った。楓の心に抱かれてい
たものは転げ落ち、再び砕けた。
「どれほど高き所にいらっしゃろうと、燃え上がる炎をご覧に
なるのよ。わき起こる悲鳴をお聞きになるのよ」

 ドミニクは楓の狂気に返事ができなかった。それどころか不
安を口にすら(そんなことをするはずもないが)できなかった。
ただ、前に進み出て、楓の逞しい背中に密着した。同じ香りが
する…。最高に美しい花の、軽やかな香りが。

 楓は剣を振るい、戦いを引き起こす者だが、それでもこの地
上に残った唯一の天使だった。

***

 霧香はベッドに横たわった。両手を死んだようにだらんとさ
せ、その目は毎晩少しずつ見慣れた模様を浮かび上がらせる天
井をガラスのように反射するばかりだった。呼吸で上下する胸
を除けばまるで抜け殻も同然だった。だが虚ろに見える外見と
は逆に、その内側では山ほどの思いと感情が、そして生気が満
ちあふれていた。

 ミレイユの作戦がまだ霧香の脳裏に生々しく残っていた。ミ
レイユの計画と、どこから手に入れたのか横浜地方裁判所の見
取り図。おそらく、あの臆病なソルダの男からの情報だろう。
背後にある細かい事情には、霧香はあまり頓着しなかった。こ
の図面を精査し記憶することが重要だとミレイユが判断したな
ら、そうするまで。霧香は全ての部屋と通路、吹き抜けの間取
りを記憶のポケットにしまい込み、必要な時にはすぐに取り出
して広げられるようにした。
 霧香の記憶のポケットには多くの建物の図面が入っている。
それらは時とともにおぼろげになって大半はかすれているが、
一部は大ざっぱな概要が影のように焼き付いている。それでも、
残ってはいるのだ。再び必要になる日が来れば、わずかなきっ
かけでおぼろげな空間から直ちにくっきりした図面となって、
正確な位置取りを導くのだ。
 霧香は積極的に覚えようと努力したわけではない。霧香とし
ては正直、そこが舞台となった血塗られた出来事とともに忘却
してしまいたいものがほとんどだった。だがそんな願いにもか
かわらず、霧香はどうにも忘れられないのだ。霧香を掴んで離
さない記憶とともに、それらは無意識のうちに霧香の一部分と
なってしまっている。まるで霧香のジグソーパズルのような過
去の空白を埋めるかのように。

 霧香の銃はベッドの木枠とマットレスの間、ちょうど霧香の
頭の位置に、こっそりと、ごく身近に、押し込んであった。清
掃し、オイルをさし、銃弾を装填し、血塗られた夜明けに備え
て。準備はできた…いや、準備はいつもできている。そして霧
香も…常に準備完了。砂時計の砂は流れ落ち、最後の太陽は地
平線に沈むのを、霧香は惜しんだ。だが、闇への心構えはでき
ている。罪は、思うだけでも忌まわしい。それが霧香を覆うた
びに、闇に取って代わる遥か遠い夜明けを思う。再び平穏が訪
れる日を。

 頭の中で枯れ葉が落ちる音のように囁きが聞こえた。この声
が聞こえなくなるまで夜明けは訪れない、と霧香は思った。帰
るべき家はその光の向こう。そのために霧香は戦い、殺さなく
てはならない。やらなければならないのだ。それが最善の方法
だから。裁判所の図面も記憶から消去し、霧香自身が満たされ
ることと引き替えになった多くの命のことも忘れ、たとえ思い
出しても些細な事と感じられるようになるために。
 もちろん、そんなことができるはずはない。罪悪感とは関係
なく罪は罪。それは霧香がまだ人間だからなのか。それとも鬼
の目にも涙というやつでしかないのか。あの囁きは霧香への答
えだが、霧香は信じる事はできなかった。ミレイユならわかる
だろうか?天使は霧香の苦悩を理解するだろうか?

 その天使が寝室への道を選んでやってきた。己の背負った罪
と引き替えに翼を無くした天使が。ミレイユは霧香とお揃いの
ぶかぶかパジャマ姿で寝る準備。そして手にしている銃はミレ
イユが準備完了であることを物語っている。

 ミレイユはワルサーP99から弾倉を抜いてチェックし、再
び装填した。霧香の目が鋭くなった。たとえ銃を持っていても、
戸口に立っているミレイユはやはり美しかった。あまりにも凝
視しすぎたせいか、それとも感情の高ぶりのせいなのか、霧香
の目から涙がこぼれた。たぶんその両方が入り混じって、愛慕
の輪の中で相乗効果を起こしたのだろう。
 頭の先からつま先まで、ミレイユは群を抜いた存在だった。
霧香の伴侶は、霧香の人生における光明だった。罪が霧香をミ
レイユに引き合わせ、罪によって二人は結ばれた。罪が二人の
愛を不滅にした。闇と死からこんな偉大なものが生まれたなん
て想像を超えている。もしかしたら、自分たち以前のノワール
たちにも同じようなことがあったのかも、と霧香は思った。
 でも、わたしたちの絆に、わたしたちの想いに、わたしたち
の愛に匹敵するものはきっと長い歴史の中にも無い、とも感じ
た。きっと、これからも。

 ミレイユがスタンドランプを消すと、部屋は屋外から図々し
く割り込んでくる街灯のオレンジイエローの薄明かりに浸った。
閉じたカーテンの繊維から、図々しくも無意味に光が透けてく
る。それでも、霧香にはその光が好ましかった。霧香を部屋の
闇に閉じ込めないでくれる。沈鬱さが無く、無害で、世界を穢
すこともなく、霧香の心を包み、心の傷を隠してくれる。
 さすがに、心の傷を消し去るまでは無理だが。

 ミレイユは銃を手に持ったまま、ベッドの足の方を回って自
分の側に移った。屈み込んで霧香の反対側になるベッドの木枠
とマットレスの間に銃を押し込むと、掛け布団を上げて中に滑
り込んだ。霧香は膝を抱えるようにして身体を後ろにずらし、
身体の下になっていた掛け布団を両手で引っ張り上げて、足の
方から布団を掛けていくと、華奢な両手両脚を伸ばして身体を
まっすぐにした。
 布団に心地良くくるまって、霧香とミレイユは二人並んで仰
向けに横たわり、無言のまま、カーテン越しの街灯の明かりで
天井に投射される影と、窓の外の立木の葉を鳴らす気まぐれな
風の音に、冴えた目をパチクリさせていた。

「パリに帰ったら、まずはお茶を楽しみましょ」
 暗がりの中、いきなりミレイユが言った。

 ハッとした霧香が顔をミレイユに向けると、そこに待ってい
たのはすでに霧香の方を向いていたミレイユの眩いばかりの笑
顔だった。

「オレンジ・ペコがいいわね」
 ミレイユのその言葉には深い愛情がこもっていた。霧香が淹
れ方を教えてもらった最初の紅茶がオレンジ・ペコだった。そ
してあいにくと、ミレイユの厳しい基準を満たせるのは今でも
ほぼこのお茶だけなのだった。
 幸いにもその味がミレイユのお気に入りになったらしい。そ
して霧香自身のお気に入り、でもあった。

 霧香も笑顔を返したが、ミレイユに比べると小さく、はにか
んだ笑みだった。また目に涙がにじんできた。ミレイユは、パ
リに帰ったら楽しいことが待っていると考えることで霧香を励
まそうとしているのだろう。だが霧香に一人で帰る気などある
はずない。ミレイユはもう、単に物質面で霧香を照らし支える
存在であるだけではない。ありとあらゆる面で、霧香と一歩一
歩の歩みまでをも共にする存在なのだ。パリの家は二人にとっ
ての聖地であり、そこへ無事に帰ろうと必死に抗うのも二人一
緒。ミレイユはいつも自分が主導権をとって、どんな事態や状
況のまっただ中でも、勇敢で頼りがいがあって、そして動じな
い。冷徹な暗殺者で頭脳明晰、策士で黒幕。そんなミレイユが、
霧香の心と魂が背負っているのと同じ不安を抱えているなどと、
霧香は考えてもみなかった。ミレイユは自分とは全く別世界の
存在で、不安や悲哀なんかに束縛されていないんだと。それが
霧香の持ったイメージだった。いくら人間以上の天使のような
存在とはいえ、ミレイユにもそういう感情があることを、霧香
は何度も忘れてしまった。賢さと成長度合いとのギャップがあ
るとはいえ、そういう気持ちがどうしても湧いてきてしまう。
 何よりも光り輝く高貴なもの、それが愛。

 ミレイユは右手を霧香に伸ばし、左手を霧香の頭の上に回し
た。実にあっけらかんと、魅惑的で、心地よく、のどかな、そ
してずっと求めてきた、抱擁同然の体勢。当惑して目を白黒さ
せる霧香を見て、ブロンド美女はイタズラっぽく眉を上げた。

「これで、ここともおさらばね」
 そっけなく言ったミレイユは、笑ってごまかそうとしたが無
理だった。

「…何を、待ってるのよっ」
 何でもなかったかのように素っ気なくぷいっと顔を背けたミ
レイユだったが、その視線はあいかわらず霧香に釘付けだった
ことに、霧香も気づかないわけがない。

 ミレイユの胸に近づいた霧香は、そのまま胸の谷間に顔を埋
めた。自分の鈍感さに後悔したが、それでも今のこの喜びの記
憶を損なうようなことは全然無く、愛しいミレイユに擦り寄っ
た。今回はこの行為にも完全にお許しが出たのだった。何もか
も受け入れてくれる両腕に誘われ、霧香はミレイユを抱きしめ
た。

 霧香は息を呑んだが、さらに身を寄せて自分とミレイユの間
隙を埋めることにもはや躊躇はしなかった。ミレイユが両腕を
しっかり回すと、霧香はブロンド美女のパーフェクトボディに
密着した。これこそ女神の抱擁。

 ゆっくり上下する胸元で、ミレイユの手が霧香の小さな手を
包んだ。霧香は、自分の傍にいてくれる身体から力が抜けるの
を感じ取った。ミレイユが目を閉じたのにも気づいた。霧香は
満ち足りた吐息を漏らすと、自分もまぶたを閉じた。

 砂時計から最後の平穏の砂粒が落ちた。

『平穏を求めるなら、戦いに備えなくてはならない』

 霧香の脳裏にその言葉が鐘のように鳴り響いた。まるでアル
テナの囁きのように、遥か遠くから反響した。だがその声を霧
香は掴めない。ただガラス越しの姿が見えるだけだ。それはま
るで、無くしたジグソーパズルのピースのよう。

 それが誰の記憶なのか、誰の言った言葉なのかはともかく、
そこには認めたくない真実があった。霧香はミレイユの腕の中
で穏やかに満ち足りて眠りについたが、明日には戦いの夜明け
が待っている。

 目覚めた霧香は、それを目にすることになる。
 
 
 
続く

 

第21話に続く   第19話に戻る

 

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