サード・ジェネシス
第17話
「容態は?」 静かにミサトが訊いた。黒髪の美女はいつもの普段着に真っ 赤なジャケット姿である。 医師はため息をつきながら、自分の眼鏡を直した。 「変化はありません、陸将」 極めて慇懃に医師は言った。 「安定してはいますが…」 「ありがとう」 一つ頷いて、ミサトは病室に入っていった。 室内には、心地よい花のような優雅な香りが漂っていた。窓 から射し込む陽光が、病室と、そしてベッドに仰臥している少 年を照らし出している。暗褐色の髪は少し伸び、その顔には静 かな穏やかさが浮かんでいた。心音モニターの小さな音が響き、 流動食と点滴のチューブが何本も繋がっている。 「おはよう、シンちゃん」 ミサトがそっと語りかけた。見舞客用の椅子をひいて、ミサ トはベッドのそばに腰を下ろした。 「ここ何ヶ月か大変だったんだから。きっとシンちゃんも元の ネルフと同じだとはわからないかもよ」 まるでおしゃべりでもしているかのように、ミサトは話しか ける。 「私だって、司令なんか押しつけられるとは夢にも思わなかっ たもん」 そう言ってミサトはニッコリ笑った。 「なんたって、葛城ミサト陸将サマよ、シンちゃんどんな顔す るかしら?たぶん一緒になって大爆笑よね」 「レイとアスカも、エヴァのパイロットに復帰したわ」 身を乗り出すミサト。 「アスカはまだケガのリハビリが続いてるけど。かなり傷も残 ってるし…。でも、あのアイパッチも似合ってきたみたい。な により、アスカとレイがとっても仲良しになったの。ホント、 想像もつかなかったくらいにね」 「レイは…」 ミサトは言葉を詰まらせ、どう話したらいいか逡巡した。あ の健康的で、子供のように純粋な少女は、この眠れる少年と密 接な繋がりを持っているのだ。 「レイはアスカや私たちと触れあうことで、人間としてどんど ん成長してきているわ」 そう言ったミサトが苦笑する。 「シンちゃん、以前のレイを何とかして手助けしようとしてた わよね。今のレイを見たら、きっとシンちゃんも喜んでくれる と思うな」 「リツコとマヤのこと、覚えてる?」 クスクス笑いながらミサトが訊いた。 「二人は一緒に暮らすようになっただけじゃなくてね、うちの 隣に引っ越してきたのよ」 椅子にもたれて呟くミサト。 「部屋が完全防音で助かったわよ。毎朝あの二人の顔を見たら、 二人で夜中に何をやってるか一目瞭然なんだもん」 時計を見上げると、もう30分近く経っていることにミサト は気づいた。ホッとため息をついて手を伸ばし、眠れる少年の 腕に触れたミサト。 「早く目を覚まして、シンちゃん」 そっと囁いて、ミサトは椅子から立ち上がった。 「また来るわ」 そうして部屋を出た葛城ミサトにとって、部屋の外に人影が なかったのは幸いだった。…涙を拭うためには。 廊下を進んでエレベーターに乗り、下に降りたミサトは、小 型の深紅のスポーツカーに歩み寄った。その車は、ミサトが今 の自分の司令官という権威に自ら逆らい、自分が何者かを常に 自覚させるためのものだった。 リツコはイヤミっぽくああ言ったけれど、そんなの年寄りの 愚痴だもんっ。 イタズラっぽい笑みを浮かべつつ、ミサトは車に乗り込み、 これから待ちかまえていることを思いながら新生ネルフの司令 本部にと向かって行った。 マヤとリツコとα号機の進捗について打ち合わせして、それ からレイとアスカを連れて昼食に行こうと思っていた。ネルフ の司令官としては、パイロットとは適度な距離を保った関係を 維持するべきなのであろうが、ミサトはそんなことに全く頓着 しなかった。 第3新東京市の市街には、行き交う車がずいぶん増え、日一 日と店舗も増えてきている。使徒の襲来の終焉と共に、適切な 補助政策もあいまって、町には人が戻ってきていた。もはやこ こは防衛要塞ではなく、人々と家族の憩いの場になっていた。 『もう誰一人、ここに戻ったことを後悔させないようにしたい わ』 道路を横断する子供たちの一団を前にして停車させながら、 ミサトは思った。 本部までは何事もなく、ミサトは車を地下ガレージに滑らか に駐車させた。エレベーター前に歩み寄り、カードキーでセキ ュリティを解除して、中に乗り込む。そして携帯電話を耳にし て秘書を呼び出した。 『はい、お待たせしました』 ミサトの新設秘書である「大和ヒミコ」が優雅に応えた。お そらくは秘書なんかより声優の方がふさわしい美声の持ち主で ある。 「私、ミサトよ」 きびきびとミサトが言った。 「何か新しい知らせは?」 『国連事務総長から、明日テレビ会議の連絡がありました』 ヒミコが答える。 『α号機建造のための資金要請の件だと思われます』 静かな口調で続ける。 『交替用パイロット候補のリストアップは継続中で、リストは まもなく届くはずです』 「ありがとう」 ミサトは頷いて、言葉を続けた。 「国連事務総長との会議はキャンセルしといて」 「すでに完了しております、司令」 上司の先読みができて誇らしげな声で、ヒミコが答えた。 「すぐにそっちに着くわ」 ミサトはニッコリ笑うと、電話を切った。 ヒミコが秘書になったのはミサトにとって天の配剤だった。 有能で、仕事をてきぱき処理できる人材で、その風変わりな上 司の奇癖を十二分にフォローすることができた。ミサトの不安 は誰かにヒミコをヘッドハンティングされることだけである。 『忘れないように、きっちり昇給してあげなきゃね』 ミサトは一人ごちた。 ミサトはエレベーターを降りて、廊下を進み、新しいオフィ スに到着した。滑らかに扉が開くと、ヒミコがデスクで仕事中 だった。積み上げられた書類が壁になった向こうで、アッシュ グレイの髪の美女は誰かと電話で話し中である。 「オハヨっ」 デスクの端からぴょんと降りたアスカが、オレンジの髪を光 る留め金でかきあげた。 「ずいぶんと朝早くから来たのねえ」 ミサトは赤いジャケットを脱いで黒のTシャツ姿になった。 そしてジャケットをハンガーに掛けてから振り向いて尋ねた。 「朝ごはんをおごる約束はしてなかったわよね?」 「違うってば」 首を振るアスカ。 「アタシだってシンジのことは心配なんだから」 口ごもったミサトが、ヒミコに顔を向けた。 「連絡事項です」 美人秘書が微笑みながら書類をミサトに手渡した。 「それと、このあと30分はお時間をとっておきますので」 「そんなに時間はとらないわよ」 中のオフィスに入っていくミサトのあとを追いながら、アス カはヒミコに笑いかけた。 「でも、ありがと」 「特に変化はないわ」 ため息をつきながら、ミサトはデスクに歩み寄って腰を下ろ した。 「シンちゃんの身体は問題なしなのに、精神は…」 ミサトは肩をすくめた。 アスカは窓辺に歩み寄り、市街を見渡した。 「…レイの言ったこと、本当だと思う?」 アスカがとうとう訊いた。 「シンジは本当に…」 言葉が途切れる。 ミサトがその言葉を引き継いだ。 「シンちゃんの精神は、母親…というか、オリジナルの綾波レ イもろとも、初号機に取り込まれてしまってる、ってことね」 再びため息のミサト。 「でも実際に初号機を回収できないかぎり、真実を知るすべは ないわ…。そしてそれは不可能。ただし、今はね」 「今は、って?」 アスカはハッとした。 「α号機の能力なら、もしかすると宇宙空間移動も」 呟いたミサトがニッコリ笑った。 「マヤがもう必要なブースター・ユニットを設計してくれたの」 アスカが神経質な息をついて、言った。 「で、そのミッションへの参加を、アタシが志願すると思って るわけね」 頷いたミサトだったが、少女への気遣いをどう口にしたらい いのか戸惑った。 「弐号機の調子はどうなの?」 ミサトはそう訊くしかなかった。 アスカはその隻眼を閉じたが、黒のアイパッチは朝日に光っ た。 「万全じゃないわよね」 そっと言ったアスカ。 「でも、良くなってはいると思う」 「よかった」 ミサトの顔に笑顔が戻った。 その時扉がコンコンと鳴って、一息置いてからヒミコが扉を 開けた。運んできたトレイを、ヒミコはデスクの上の空いてい るスペースに置いた。 「コーヒーです、司令」 微笑むヒミコ。 「ミス惣流もいかが?」 「あ、いや、けっこうよ」 アスカがあたふたした。 「何かお要り用でしたらご遠慮なく」 ヒミコはミサトに微笑みかけると、部屋を退出した。 「これからα号機のことでリツコとマヤと打ち合わせ」 そう言って、ミサトはコーヒーに口をつけたが、その淹れ方 は自分の好みにピッタリだった。 「できるだけ早く、テストを開始したいから…」 そう言って、ミサトはアスカの目を見た。 「アスカの名前もリストに入れておくわね」 「はいはい、お世話さま」 アスカは苦笑した。 アスカはミサトから離れ、外オフィスに立っていたリツコと マヤを見つけて中に招き入れた。 「おはよう、二人とも」 アスカが笑いかけた。 「『グッドモーニング』かどうかそっちにはわからないでしょ?」 リツコがニヤニヤ笑うと、マヤは茶色の髪の根っこまで真っ 赤になった。 「イヤになるくらいわかるわよ」 やれやれと首を振るミサトに、二人の美女カップルも一緒に 笑った。 ミサトが椅子に腰掛けなおした。 「で、α号機の進捗状況は?」 「弐号機を再生させた経験を積んだおかげで、順調すぎるほど です」 まだ顔を赤くしたままのマヤが、そう言った。 「予期しない事態の発生を考慮に入れても」 金髪の美人科学者は、そう言って微笑を浮かべた。 「一ヶ月から、一ヶ月半後には」
続く
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