ラスト・クリスマス

 
 
 菫川ねねねは、わずかに微笑みを浮かべながら、馴染みの四
角いビルを上がっていくと、自分の鍵で扉を開け、中に入って
いった。明褐色の髪を靡かせながら中に入り、本の香りを深く
吸い込んで首を振ると、ねねねはそろそろと廊下の本の山をす
り抜け、やはり本がずらっと並んだ階段を上がっていった。

「センセ!」
 声をかけながら、ねねねは肩にかけていたカンバス地のショ
ルダーバッグを直した。
「こんにちはーっ」
 階段の上まで来たねねねの耳に、クリスマスの曲が聞こえた。
その歌に、ねねねは眉をひそめた。

 ♪全てを捧げた去年のクリスマス
  なのに貴女は逝ってしまった
  今年はもう泣きたくないから
  もっと大事なあの人に…

 読子・リードマンは、本や雑誌の山の谷間に埋もれたベッド
に腰掛け、その中で寝起きで服もしわだらけのまま、夢中にな
って読書に没頭していた。鼻の頭にメガネをちょこんとかけ、
黒いロングヘアは寝癖が付いたままだが、読子はあまりにも神
々しかった。
 …少なくとも、ねねねの目には。

「先生っ」
 顔を上げた読子の頬が、嬉しそうに紅く染まった。
「この本、すごく面白いですっ!」

 ねねねは苦笑するしかなくて、床に散乱し、ありとあらゆる
家具を覆い尽くすばかりの本の山を注意深くすり抜けた。
「気に入ってくれて、よかった」
 そう言ってねねねは本を数冊わきによけると、ベッドの読子
の隣に腰を下ろした。
「読子のいない間も、読みたがりそうなのを何とか書き続けよ
うと思ってたから」

 読子に目を向けると、喜びが湧き上がってくるのを感じて、
ねねねはまた読子を見つめずにいられなかった。
 5年以上、読子はナンシーのクローンと一緒に、かつて所属
していた大英図書館から逃亡し続けていた。ねねねにも何も言
わず、読子は逃亡を続けながら、いつかまたきっと再会できる
という唯一の希望を抱いて、ナンシーと共に絶望の道をひた走
っていたのだった。

「あたしを先生なんて呼ばないで」
 口ごもりながら言うねねね。
「…読子」

 頬にぽっと可憐な赤みを浮かべ、読子はそっと手にした本を
伏せた。深呼吸して、読子が答えた。
「ありがとう、…菫川さん」

「ね・ね・ね」
 そう注意したねねねに、読子はずっと愛くるしく頬を赤らめ
ながら、言い直した。

 読子は胸に本を抱きしめながら、部屋中の本を見回して言っ
た。
「…もういっぱい作品があるんだもの、やっぱり、何て言えば
いいか…」

 ねねねは自分の頬が紅くなるのを感じて、ドキドキしながら
メガネを直した。
「大した量じゃないわよ」
 そう答えて、ねねねはさっと話題を変えた。
「ところでどう?新・三姉妹偵探社の一員になって?」

「とっても楽しいです。ドレイクさんも入社したし」
 読子がニッコリ笑う。
「本の捜索で大忙しなんです。大英図書館も読仙社も無くなっ
てしまって」
 はっとする読子。
「そうだ、思いだした…!」
 読子はあやうくベッドから落っこちそうになりながら、ベッ
ドわきを手探りすると、ねねねのためのプレゼントを取り出し
た。
「…これ」

 三姉妹偵探社の名前を目にして、ねねねは苦笑しながらさっ
さと包み紙を取った。ミシェールとマギーはもちろんお気に入
りの本、そしてアニタはあのカエル。
 驚いたことにドレイクのプレゼントは立派な手びねりの茶碗
だった。
「ちょっと意外」
 何回か会っただけだが、あの金髪のタフガイを思いだし、ね
ねねは呟いた。

「ドレイクさんの手作りなんですよ」
 楽しげに説明する読子。
「こういう趣味のあること、あまり人には知られたくないみた
いですけど」

 その言葉に、ねねねはクスクス笑った。
「ところで、ジュニアは?」
 詮索するねねねは、注意深く読子の顔色をうかがった。読子
がかつて愛していた女性から生まれたジュニアは、ねねねにと
っては忘れてしまいたい過去を呼び覚ます存在だった。

 しかし読子は朗らかに微笑みながら答えた。
「ミシェールさんが世話をしてるし、アニタちゃんも面倒を見
てますよ」

 ほっと安堵したように、ねねねが言った。
「じゃ、アニタはジュニアと…」

「いいえ」
 大きく首を振って、読子が続ける。
「アニタちゃんは、親友の久美ちゃんとらぶらぶみたいです」

 一度、夜にアニタと一緒にやってきたあの愛らしい少女を思
い出して、ねねねは微笑した。久美はアニタにベタ惚れだった
が、あの元気な赤毛の少女は親友の気持ちにあまり気づいてい
なかったように見えていた。
「久美ちゃんはあたしも好きだから」
 ねねねが言い添えた。
「それならよかったわ」

「ナンシーさんから絵はがきが届きました」
 読子の言葉に、ねねねは思わず緊張していた。

 ナンシー・幕張は、あの偉人軍団の件で読子とコンビを組み、
二人はその中で愛にまで昇華する深いつながりを育んだ。ナン
シーが偉人軍団の手先だったとわかった時、読子は悲嘆に暮れ
たが、ナンシーが己の邪悪なクローンもろとも偉人軍団を滅ぼ
すために自らを犠牲にした時、その悲しみはさらに深まってし
まった。
 ナンシーの記憶は大英図書館によって確保されたクローンに
移され、そのDNAはジュニアを生み出すのに使われた。読子
は生まれ変わったナンシーを大英図書館から救い出し、5年以
上も逃避行を続けたのだった。

「…今、どうしてるの?」
 ねねねは平静な声を保った。

「日本には帰ってきてないんです」
 読子はそっと答えた。
「ナンシーさんは今、イギリスで仕事を見つけたって…」

 ねねねは躍り上がりたいほどだったが、読子の気持ちを考え
て、必死で自制した。
「…ごめん」
 きまり悪そうに言うねねね。

 読子はねねねを見上げて微笑んだ。
「いいえ、その方がナンシーさんにとっても良かったと思うん
です」
 ほっと息をつく。
「彼女はやっぱり、私の知ってるナンシーさんとは違うんです。
私も、ずっと過去を引きずっていくことはできませんから」

 ねねねは自分の手に視線を落とし、そしてためらいながら手
を伸ばして、読子の手をとり、そっと握りしめた。その手を読
子も握りかえすと、二人はそのまま無言で座り続けた。
 ラジオからずっと流れるクリスマスキャロルが、二人の耳に
響いた。

「…あたしも読子にプレゼント」
 ねねねは自分のバッグを開けて、中からきれいに包装された
平べったい包みを取り出し、読子に渡した。

「まあっ!」
 包みをすばやく開けると、読子の目が喜びに見開かれた。中
に入っていたのは一冊の小説だった。著・菫川ねねね、とある
のを読子が見て、ニッコリ笑っていたのが不思議そうな顔に変
わる。
「これ、見たことありません」
 呟く読子。

「校正刷りよ」
 長いこと想い焦がれていた通りの読子の反応に熱いものを感
じながら、ねねねが答えた。
「だから、読子がこれを読む最初の読者なの」

「ありがとうっ!」
 両腕を広げて抱きしめてきた読子に驚いたねねね。そしてそ
のまま二人は勢いで倒れ込んでしまった。

「ちょっとおっ!」
 ねねねは笑いながら、自分を見下ろしているキラキラ輝く瞳
を見上げた。だが、その瞳がいきなり潤んで曇るのを見て、ね
ねねは不安げに訊いた。
「ど、どうしたの?」

「わ、私、プレゼントを用意してなくて…」
 涙ながらに懺悔する読子。
「うっかりしていて、私ったら…」

 読子の唇に指を当てて、ねねねが静かに言った。
「今年のプレゼントなら、もうとっくに最高のをもらってるわ」

 当惑顔の読子。
「何を?」

「読子を取り戻したこと」
 大まじめに、ねねねが優しく言った。
「それ以上に人生ハッピーなこと、あるわけない」

「…ねねねさん」
 あふれる涙に瞳を輝かせ、読子が微笑む。
 その涙を、ねねねがそっと指先で拭う。

 ねねねがそっと微笑んだ。
「初めて会った時のこと、覚えてる?」
 ねねねの手が紅潮した頬を包み、優しくさすってきて、読子
はほっと息をついた。

「ええ」
 答える読子。
「夢中になって執筆中のところだったから、私はおっかなびっ
くりで」

「キスシーンを書きたかったのに」
 ねねねはそっと読子にのしかかった。
「でも、キスの経験がなかったあたしは、それがどんなものな
のかわからなくて…」

「だから、私にキスしたんですよね」
 微笑んだ読子の息づかいが少し早くなった。

「ファーストキスだった」
 呟くねねね。
「ずっと、もう一度って思ってたのよ」

 ねねねは顔を寄せると、読子と唇を重ねた。両腕で読子を抱
きしめると、読子も身を寄せてきて、二人はキスに夢中になっ
た。息が出来なくなってようやく顔を離すと、二人はそのまま
ベッドの上で寄り添った。

「私、年上すぎだし…」
 やっとのことで囁く読子。
「他にも私が似つかわしくない理由は千個ぐらいも…」

「私は作家よ。それなら読子が私にふさわしい理由を、千と一
個ひねり出してやるわ」
 読子を抱きしめたまま、ねねねが言った。
「でも、肝心な理由は、たった一つ」

「何です?」
 尋ねる読子。

「…愛してる」
 そう答えて、ねねねは再び読子に口づけした。

 激しくキスを返した読子は、ねねねの優しい、しかし驚くほ
どに敏感な手の感触に身を震わせた。

「私も愛してます」
 幸福に満ちて、読子は言った。
 

  

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